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中国四国

2_02 雲の上の町梼原(ゆすはら)と龍馬脱藩の道

<町総合庁舎:住民サービスを提供する施設かと驚きでした>

愛媛県境に位置する「雲の上の町」梼原町は、高知市から車で1時間、四万十川支流の山間地です。隈研吾の建物と龍馬脱藩の道、四国カルスト開拓の場所として知られています。

梼原の公共施設/梼原町は、町総合庁舎、雲の上の図書館YURURIゆすはら、雲の上ギャラリーなど、隈研吾の設計の建物が日本一集中している自治体です。

まず総合庁舎の大きさと、壁や柱に木材が使われたデザインは、従来の庁舎を見慣れたものにとっては驚きです。何よりも、積雪が多く、湿気の多い「雲の上の町」での耐久性に疑問を持ちました。

私自身が勤務した那珂川町の隈研吾設計の広重美術館は、屋根のルーバーに地元の八溝杉を用いましたが、開館25年で劣化が進み、人口1万6千の町が3億円で改築することになりました。人口3千の梼原町で、すでに最初期の建物は取り壊されていました。

梼原で高校存続のことも学びました。地域・行政・学校の熱意によって寮を設置し、県外からの生徒も受け入れ、2桁だった全校生が120名を超え、野球部の活躍は、地域活性化に寄与しているとのことです。統廃合だけが選択肢でないことの好例です。

維新の門群像/幕末の土佐藩は、前藩主山内容堂が実権を握る一方、藩内では武市半平太や那須信吾らが佐幕派家老を暗殺、一時藩論は勤皇に傾きました。しかし、容堂によって武市らが処罰されたため、多くの勤皇藩士たちが脱藩しました。

坂本龍馬は、家老暗殺事件より先に脱藩を決行、一目に付かないよう夕刻に高知を発って夜通し歩き通し、梼原に那須家に宿泊、翌日には那須信吾の案内で伊予に抜けました。脱藩は、自身の身の危険ばかりでなく、家族にも災禍を及ぼします。 

梼原には、「維新の門」という、龍馬をはじめ脱藩した人物の群像があります。時代に先駆け過ぎ、明治維新を見ずに全員が非業の死を遂げました。「土佐のいごっそう」たちです。「脱藩の道」は、カルスト台地にある大野原開拓周辺を行ったり来たりして、やっと県境の韮が峠にたどり着き、「龍馬脱藩の地」の表示を見つけました。司馬遼太郎の『街道をゆく』の「梼原」の段には脱藩の道が詳述されていませんので、作者は峠に行っていないように感じました。「脱藩の道」はそれほどに行きにくい狭い林道です。

観光地になっているカルスト台地は、積雪が50㌢にもなります。戦後大陸からの引揚者の入植地ですが、現在開拓3世の世代で、人口83人、立ち寄った小学校の在校生は9名でした。それでも廃校にならないのは、将来的に入学者が見込めるからだそうです。

<維新の群像:右から二人目が坂本龍馬、右手前道案内の那須信吾>
<維新の群像:右から二人目が坂本龍馬、右手前道案内の那須信吾>

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