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中国・四国

2_16 鳴門市 一番札所と第九の里

<大麻比古神社境内の独逸橋>

鳴門インタチェンジを下りると直ぐに四国八十八ケ所霊場一番札所霊山寺があり、隣接して坂東俘虜収容所跡があります。ドイツ人捕虜と地域の交流の足跡を訪ねました。

一番札所/江戸時代、遍路は大坂から鳴門に上陸し、まず第一番札所霊山(りょうぜん)寺を訪れます。門前の売店で、同行二人と書かれた笠や金剛杖、奉納帳などを用意します。

もともと僧侶の修行道場であった四国霊場が、八十八ケ所として庶民に広く広まったのは江戸時代の元禄期です。巡礼路が整備され、さらに遍路を迎える地元民の善根宿(困っている遍路を無料で泊めるやど)などが整ったことが遍路の増加に繋がりました。

たまたは、660回の巡礼を終えた四国霊場会公認先達から、「六百度満願記念」の錦のしおりをいただきました。私は、中抜けしながら廻っているので、恥じ入るばかりでした。

一番札所に接して、阿波国を開いたと言われる阿波一の宮大麻比古神社が鎮座しています。境内を流れる小川に、独逸(どいつ)橋と言われる石造りのアーチ橋があります。ドイツの捕虜たちが帰国に当たって感謝の意を表して築橋したものです。

坂東俘虜収容所/1914(大正3)年、植民地をめぐりイギリスとドイツが対立する中、オーストリア皇太子暗殺を契機に、ドイツとオーストリア連合国がイギリスなどに宣戦布告しました。第一次世界大戦です。日本はイギリス側につき、中国における利権獲得を目指して参戦、ドイツは敗戦国となり、日本はドイツが植民地としていた山東省の利権を引き継ぎました。

大戦後、青島(チンタオ)などにいたドイツ軍の俘虜(捕虜の古風な表現)4300人余りが、日本各地の収容所に移されました。その中で、徳島県の坂東(ばんどう:現鳴門市)町の坂東俘虜収容所には、最も多い1000人を超える捕虜が収容されました。

会津藩出身の所長の方針の元、敗戦国ではあっても、日本の近代化のモデルとなったドイツに対して敬意を表し、ドイツ人の持つ知識や技術、さらに文化も吸収しようとして交流を深めました。収容所では文化サークルの活動が盛んで、中でもオーケストラは日本で最初の「第九」通しの演奏会が行われました。洋菓子の講習会が行われ、パン工房の窯跡が残っています。小中学生が器械体操の見学にも訪れています。

捕虜をもてなす精神は、困った人を助ける遍路の善根宿の精神が根底にあったと思われます。「道の駅第九の里」には「鳴門市ドイツ館」があり、今も第九が歌い継がれています。

「バンドウ」の例があるのに、その後の大戦で、外国人捕虜への対応が指弾されました。

<道の駅 第九の里>
<道の駅 第九の里>

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