top of page

中国・四国

2_15 二つの四万十 窪川と中村

<佐田の沈下橋:屋形船が運行されている>

高知県西南部には四万十の名前の二つの自治体あります。知名度の高い「四万十」を譲れなかったのでしょう。四万十川が中国山地を複雑に流れる中流から下流域をたどりました。

四万十町/四万十川の蛇行を体験しようと、高知から足摺岬方面に向かって、四万十町の中心地窪川から出発です。四万十川は四国山地から南流して窪川で太平洋と9㌔まで近づきます。ところが、窪川から海と反対側の山に向かって西北に流れます。蛇行に沿って車を下流に走らせているにもかかわらず、山に上って行くような錯覚を起こしました。

四国山地の間を嵌入蛇行しながら、再び西に流れ、やがて四万十町から四万十市の境界線辺りから南に流れ、四万十市中心部中村で海に出ます。中流域から河口まで川に沿って走ってみて、四国の地殻変動の大きさを実感しました。

流域は重要文化的景観に我が国初めて指定されています。途中いくつもの沈下橋があった中で、最下流の佐田の沈下橋が最も印象に残りました。

四万十川のあまりの蛇行で、感覚的に上流と下流が反対になることを実感しました。

四万十市/四万十川の河口に位置する旧中村市は、土佐の小京都と呼ばれています。室町幕府の権威衰退とともに、11年間に及ぶ応仁の乱となり、高家の公卿たちは戦乱を避けて、守護大名の周防(山口)の大内氏や越前の朝倉氏などを頼って一時避難的に下向します。

そういう中で、摂政や関白を出す家柄の一条家は、守護大名を頼ってでなく、自領の荘園のあった中村に下向、一条教房はそのまま守護大名と同じように領国の経営に当たりました。九州の大友氏などと姻戚関係を広げ、土佐南西部を掌握するまでの力を蓄えました。

下向に当たり、多くの家臣団も同行したことから、京都の生活ぶりや京風文化が伝播します。教房は、中村御所に住まい、市街地を京都に倣って碁盤の目状に整備し、石清水八幡宮を勧請して不破八幡宮を建てました。

しかし、一条氏はかつての家臣長曾我部家によって滅ぼされ、文字通り下克上です。長曽我部は土佐一国の大名となりますが、徳川家康の怒りに触れて改易、山内氏が入部します。土佐の中心は高知に移り、中村は一地方都市になりましたが、今に都ぶりを残しています。

中村の町には川魚を提供する店が多くあり、今回ばかりは値は弾んだものの最高級の鰻1尾がたっぷり乗ったうな重を堪能してきました。四万十川の恵みをお裾分けしてもらいました。四国の南端にこんな素晴らしい歴史がある町があるのに驚きでした。

<中村御所の跡に建つ一条神社:町を見下ろす場所にある>
<中村御所の跡に建つ一条神社:町を見下ろす場所にある>

bottom of page