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中国・四国

2_13 村上水軍と今治造船所

<海を濠に取り入れた今治城>

しまなみ海道の四国の起点今治は、古代の伊予の国の国府が置かれ、伊予の中心地でした。また、瀬戸内海を航行する船舶は、鳴門や下関とともに潮流の流れが速い来島海峡の航路に当たることから海賊の拠点でした。海賊と言ってもパイレーツではありません。

村上海賊と今治城/九州と近畿地方の航路に当たる今治沖の来島海峡を通過する船は、瀬戸内海一帯を支配する村上海賊に、帆の数や積載量に従って通行料「帆別銭」を払って海上警備や水先案内をしてもらいます。村上海賊は時の政権にも大きな力を及ぼし、毛利氏など戦国大名と競ったり、同盟を結んで勢力を維持しました。豊臣政権獲得にも大功を挙げました。しかし、関ケ原の合戦で西軍に付き、江戸時代になると幕府によって力をそがれました。

代わって、幕府は今治が重要な拠点であることから、築城の名手藤堂高虎を伊予20万石で入部させました。高虎は海水を引き入れた広大な濠をめぐらし、直接城に船をつける海城を築きました。その後、高虎は東海道の要地伊勢・伊賀に転封し、今治は松平氏が江戸時代をとおして支配しました。江戸時代以降の今治は、入浜式塩田による製塩、北前船の寄港地として栄え、船大工や船舶修理関係者が集住し、今日の造船業の基礎が出来上がりました。

今治城は戦災で焼失してしまいましたが。一部が復元され、広い濠の先の石垣に立つ櫓は高虎築城の築いた四国の玄関口にふさわしい名城です。

今治造船所/明治以降の日本の造船所は、財閥系の三菱重工、三井造船、石川島播磨造船などが、海運業の発展とともに、国策として鋼鉄船の建造にかかり、第一次大戦後は米国、英国に次いで世界3の造船国となりました。

 そういう中で、今治造船所は、明治末に、檜垣造船所として個人経営の木造船の造船会社として発足、中小造船所と合併を繰り返して、瀬戸内海では最大手にまでなりました。

しかし、戦後は仕事がなく会社を解散することになりましたが、鋼船へ切り替えるため、大手と業務提携し、高度成長期には、日本の造船数の世界一に寄与しました。今治造船所でも液化天然ガス輸送船やフェリー、自動車輸送船など大型船の建造に踏み切り、今治だけでなく丸亀の造船所も大型船に対応するドックを建設し、日本の海運業界を支えました。

しかし、昭和48年の石油危機で造船業界が壊滅状態になり、韓国・中国にも抜かれて造船王国の地位を失いました。そういう中、今治造船所ではドックを新設し、競業他社を合併するなどして、国内シェアの三分の一に地位を占め、世界第4位の造船会社となりました。

今治駅を降りると、目につくのが、22階の今治造船所の経営による今治国際ホテルです。財閥系の大手造船所が撤退する中で、今治造船所は現在最大手の造船所となっています。

国に頼らず、機を見るに敏な瀬戸内の海賊魂があったからでしょうか。

<町の中にタンカーの実物大スクリューが展示されている>
<町の中にタンカーの実物大スクリューが展示されている>

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