top of page

中国・四国

2_12 瀬戸内海の製塩 広島竹原と香川坂出

<竹原市の竹鶴酒造:江戸から明治期の家並が並ぶ>

塩田で栄えたの広島の竹原から、しまなみ海道の途中の大三島にある伯方の塩工場を見学、香川県坂出市の塩田跡に回り、塩の専売制度やその後の廃止についても学びました。

浜旦那/竹原は古くから港町として開け、江戸時代には浜旦那と言われた塩田主によって入浜式塩田が開かれ、製塩によって急激に発展しました。安土桃山時代に播磨(兵庫県)の赤穂から、入浜式塩田の技術が導入され、一時は日本一の産出量を誇ったと言います。製塩と回送業によって京阪ばかりでなく北陸にも運ばれ、塩の道の起点糸魚川では、塩を「たけはら」と呼んでいたと言います。、竹原の塩は知名度が高く、大きな富をもたらした。

城下町でない塩業の町からは学者頼山陽をはじめ、多くの文化人を排出しました。町衆は俳諧や茶道などを嗜み、町民文化が栄えました。町並み保存地区にある頼家の住宅などが残っています。塩田で働く多くの浜稼ぎの労働者のための醸造業も盛んで、テレビドラマ「まっさん」こと竹鶴政孝の実家の酒造店は今も営業していました。

かつての塩田は埋め立てられて、塩田跡地にメガソーラーが造られ、これから、文化的な旧市街地の伝統的建造物群とどのように調和していくか課題です。

日本一の塩田/中学の社会科の時間に、坂出が日本一の塩田であることを学びました。竹原からしまなみ海道で四国に渡り、各地を見学しながら坂出に行きました。塩田跡がみられるのかと思ったら、造船、重化学コンビナートなどに変わり、塩田は残っていませんでした。

江戸時代末に、藩財政の困窮する中、塩田を開いて、砂糖と綿に加えて「阿波三白」となりました。砂糖と綿は明治以降輸入品に押され衰退する中、塩は明治27年に全国一になりました。明治38年に、塩の専売制によって国内製塩業は保護されていきます。

さらに、戦後は入浜式から、流下式に変わり、粗朶(そだ)や竹の枝にポンプで海水を掛けることで、生産高が急増します。30年代の流下式の写真が教科書に載っていたのでしょう。

昭和47年に、イオン交換膜法が導入され、工場で造られるようになると、塩田は不要となり、塩田跡には大きな製塩工場が稼働していました。塩の専売制度が廃止になり、讃岐三白の内、和三盆などを除いて、はほぼ消滅したと言えます。

伯方の塩の原料がメキシコなどの塩田のものであること、塩には賞味期限がないことも知り、改めてパックをよく見て確認しました。塩は米と同様に国が備蓄し、大蔵大臣の許可を得て市場に出すことも知りました。海なし県で育ったためか製塩には特に関心があります。

<坂出市塩業資料館:奥は近代的な製塩工場>
<坂出市塩業資料館:奥は近代的な製塩工場>

bottom of page