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中国・四国

2_10 瀬戸内海の風待ち港

<常夜灯と船番所・潮の干満に対応する雁木>

瀬戸内海は、古代より大陸や半島と畿内を結ぶ海上交通の要衝でした。近世になると、日本海と京阪を結ぶ北前船の重要な航路となりました。潮の干満を利用するため、各地に汐待港ができました。安芸と備後(びんご:ともに広島県)の潮待ち港を2か所訪ねました

鞆(とも)の浦/備後の東端にある鞆の浦は、瀬戸内海両端の紀伊水道と豊後水道の中間点に当たり、満潮の際は上げ潮で寄港、干潮の際は東西に向かって潮に乗って航行でき、櫓(ろ)航(こう)や小型の帆船中心の時代には絶好の潮待港となりました。

江戸時代、北前船によって北陸や遠くは蝦夷地まで商圏が延びると、鞆の浦は、水や食料の提供、関連する船釘(くぎ)や錨(いかり)の生産などで活況を呈しました。

しかし、江戸時代中期になると、木綿の帆により帆走船が大型化し、航海術の向上から、瀬戸内海中心部を最短距離で大坂に向かうようになり、陸に近い鞆の浦は次第に賑わいを失いました。さらに、明治時代には鉄道から離れたこともあり、衰退の一途をたどりました。

一方で、開発が遅れたことで、常夜灯・雁木(がんぎ)(階段状の船着き場)・船番所など江戸時代の旧態がそろって残る全国唯一の場所で、重要伝統的建造物群保存地域になっています。  

市街地と鞆地区を結ぶトンネルが、紆余曲折の末に開通し、交通の便は良くなりましたが、筝曲者宮城道雄の『春の海』の原点でもある古い港町はどうになっていくでしょうか。

大崎下島御手洗(みたらい)/江戸時代中頃から千石船(約150t)などが就航し、より経済効率な航路で商都大坂と日本海側が結ばれました。それに伴って、瀬戸内海の中央に位置する大崎下島の御手洗が寄港地になりました。蝦夷地からのニシンや昆布、津軽や北陸の米穀などを運ぶ北前船の他、参勤交代の大名船や長崎からの貿易船も立ち寄りました。

御手洗は、沖に停泊している船に「おちょろ船」で出掛け、洗濯などの奉仕をする遊女の港として知られ、危険な航海を終えた船乗りたちが心待ちした寄港地となりました。オランダ使節が寄港した際、遊女を抱える茶屋を「悪徳に満ちた施設」と記しています。

その後、単なる寄港地でなく、商取引の中継地へと発展し、富商が軒を並べるようになりました。海援隊の坂本龍馬も商取引で寄港したとのこと、商取引だけが目的だったでしょうか。

合併で呉市の一部となり、4つの橋で繋がりましたが、バスで片道1時間半かかりました。中継地の役目を終えた御手洗は、華やかであった分、過疎化の大波にさらされています。

<茶屋が並ぶ御手洗:重伝建の町並み>
<茶屋が並ぶ御手洗:重伝建の町並み>

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