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中国四国

2_01 マイントピアとベンガラの町並み

<緑の中の別子銅山跡:春から秋にはバスが運行される>

本県の公害に関心を持ち、田中正造に関する書物を読み込んだことをきっかけに、足尾ばかりか北海道から九州まで全国の炭鉱や鉱山跡を訪ねる旅をするようになりました。鉱山跡には、地域の盛衰、国の歴史や経営の理念などが凝縮され、学ぶことがたくさんあります。

別子銅山/江戸時代には幕府直轄の足尾銅山などが開発され、対オランダ貿易の輸出品の半分の額を占めるほどになりました。明治になると多くの銅山は新政府に経営が移り、やがて財閥系の会社に払い下げられました。殖産興業のもと、銅山の開発が急速に進められ、短期間で西洋列強と比肩できる国力を持ちました。一方で、鉱害が各地で多発しました。しかし、鉱害の対応には経営者によって大きな違いがあります。

愛媛県新居浜市にある別子銅山は、江戸時代初期に開発され、昭和48年に閉山されるまで、一貫して住友家によって経営されてきました。別子でも鉱害が深刻になりましたが、精錬の場所を瀬戸内海の無人島に移すことで山林の荒廃を防ぎ、さらに荒廃した鉱山跡の造林に努めました。「住友林業」の起源です。

春から秋には鉱山見学のバスが出ていますが、冬季でゲートが閉まっていましたが、特別に開けてもらい、採鉱所跡を訪ねました。夕方に麓の鉱山本部跡に戻り、鉱山のマインとユートピアの合成語「道の駅マイトピア別子」で湯につかり、地元の人とビールを飲みなが、開坑以来300年の歴史を学びました。今も住友は地元と繋がりを持っています。

ベンガラの鉱山町/弁柄はインドのベンガル地方の名前に由来します。南蛮貿易で輸入し、伊万里の焼き物や輪島の漆器などの赤い色の原料となり、高価なものでした。  

江戸時代末になって、吹屋(ふきや)(岡山県高梁(たかはし)市)で、ベンガラの原料の硫化鉄鉱が採掘され、標高500メートルの山地に弁柄の集落が誕生しました。日本唯一の生産地として「弁柄御殿」も建てられ大いに繁栄しました。しかし、戦後になって本体の銅山が閉山となり、さらにベンガラが科学的に生成されるようになり、町も一気に廃れてしまいました。

吹屋地区には弁柄格子の赤で統一された屋並みが残り、国の重要伝統的建物保存群に指定され、地域振興の核となっています。しかし、酒屋の主人によると、国指定を受けるため努力した世代が代替わりし、過疎化が進行し、建物の維持が難しくなっているそうです。

石見銀山が世界遺産になり、多くの観光客で賑わっています。一方で、歴史的に引けを取らない吹屋は、交通不便地が抱える鉱山町の地域おこしの試金石になっています。

<吹屋の弁柄御殿:「八つ墓村」のロケに使われた>
<吹屋の弁柄御殿:「八つ墓村」のロケに使われた>

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