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中部

5_09 古東海道二つの峠を越えた女性たち

<古東海道足柄峠:倭建命の嘆き「あづまはや」>

奈良時代、大和と全国の国府を結ぶための七道が開かれ、東山道と東海道が東国経営の要路となりました。東海道の中で最も難所とされた新旧二つの峠を訪ねました。

足柄峠/奈良時代の東海道は、駿河の金時山の北麓の足柄峠を越えて相模へ抜け、さらに三浦半島から房総半島に渡海しました。東山道に対して街道名に海が付くゆえんです。

『古事記』に、倭建命が東征の際、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神(わたつみ)の怒りを鎮めるため入水したことで、無事海を渡ることでき、東国平定後の帰路、足柄峠から東を振り返り、「吾妻やは(あづまやは:我妻よ)」と嘆き、そこから、東を「あずま」と言うようになったとあります。まだ国字の峠が成立以前だったことから、足柄坂と表記していたので、坂より東を坂東、また、関所が出来て以降は関東となりました。

平安時代、『更級日記』の作者が少女の時、上総の国司の任期を終えて帰京する父菅原孝標(たかすえ)に従って峠を越えた時、「空のけしきはかばかしくも見えず、えも言はず茂りわたり、いと恐ろしげなる」と、言葉にならないほど恐ろしい道だったと記しています。その後、富士山の噴火があり、より近くて安全な箱根峠が開かれ、足柄峠は主要街道から外れました。 

足柄は、後に坂田金時となった金太郎の故郷です。御殿場線足柄駅から、古道をたどり、富士山を一望しながら『古事記』に記された峠に行くことができます。

箱根峠/鎌倉時代、京都と鎌倉の二元政権の中、足柄峠に代わって、より距離の短い箱根路が開かれました。また、源頼朝が箱根権現を信仰し、参詣道として整備したことから、麓の湯本から芦ノ湖に向かう湯坂道が東海道になりました。歌人としても知られる三代将軍実朝は「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ」と詠んでいます。

鎌倉時代、この峠を越えた女性がいます。亡夫が残した遺領相続訴訟のため、鎌倉に下向した阿仏尼(あぶつに)です。『十六夜日記(いざよいにっき)』に、「足柄の山は道遠しとして、箱根路にかかるなりけり。いとさかしき山を下る」と記しています。「さかし」は険しいという意味の古語です。1日でも早く訴状を幕府に届けたいとの母親の気持ちで、距離の短い箱根峠を越えました。

従来は、防御の関係上、街道は尾根筋を通るのが一般的でしたが、江戸時代になり国情が安定したことから、急坂が避けられ、川沿いに元箱根へ向かう街道が開かれました。その後も時代に合わせて街道が付け替えられ、今は駅伝でおなじみの箱根新道が国道1号です。

春の好季節、箱根湯本駅から歩き始め、阿仏尼とは逆コースをたどりました。急登が続き、途中時間切れでリタイア、箱根登山鉄道宮ノ下駅へショートカットになってしまいました。

<湯坂路:阿仏尼が「さかし」坂道と表現した急坂>
<湯坂路:阿仏尼が「さかし」坂道と表現した急坂>

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