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中部

5_13 長良川水運と治水の歴史

<上有知の川湊灯台:美濃市>

長良川上流の郡上八幡市で「郡上踊り」に参加し、中流域の美濃市で川湊を見学、国宝の犬山城に上り、さらに岐阜県南端の海津では、濃尾の水運と治水の歴史を勉強してきました。英語のRival(競争相手)の語源がRiver(川)であることを実感しました。

卯建の上がる町/上有知(こうずち)と呼ばれた美濃市の中心街は、江戸時代は尾張藩の商人町として栄えました。町の中心部は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、卯建(うだつ)の上がる町として知られています。

岐阜県を貫流する長良川は、江戸時代、山間地飛騨と伊勢湾を結ぶ物資輸送の大動脈でした。分水嶺を越えた飛騨方面から、美濃和紙の原料の楮(こうぞ)、木工品などが駄送され、上有地に集荷されました。さらに、米や薪炭などが大消費地の名古屋に川下げされました。上り荷は、塩や干物など海産物の他に、衣類、砂糖など生活必需品で、川船で遡行しました。

上有知には、紙問屋や米穀商、呉服商などの商人が集まり、競って卯建を上げました。ところが、明治になり、鉄道が敷設されると、舟運は急激に衰退し、有力商人は都市部に移動しました。

物流の変遷がそのまま町の衰退につながり、市街地は空洞化した例は日本各地にあります。地方活性化の課題が、卯建の上がる町に凝縮されていました。

宝暦治水事件/伊勢湾岸道路を通ると、木曽川の次は揖斐川となり、長良川の表示がありません。本来、木曽三川として、濃尾平野を流れていたものが、河口部で二本になり長良川がなくなってしまいます。その背景には、薩摩藩と幕府の対立、最近の河口堰など複雑な歴史があります。

かつて、濃尾平野の河口近くでは木曽三川が蛇行し、一番水量の多い木曽川が溢水すると、美濃側の長良川と揖斐川に流入しました。洪水常襲地帯では「輪中」で村を守りました。

幕府は、薩摩藩に対して、洪水対策として、長良川と木曽川を分流させるための築堤を命じました。宝暦4(1754)年、指揮は幕府、資金と人材は島津藩負担といういびつな関係で着工しました。工事中、幕府役人が意図的に破堤したとして薩摩藩は抗議のため、藩士51名が切腹するという「宝暦治水事件」(宝暦事件は別)が起きました。幕府が薩摩藩の財力をそぐ目的で、治水を権力闘争の具に用いたと言われています。

工事竣工後、現場を指揮した薩摩藩家老は、部下への贖罪のため自らも切腹しました。幕末における薩摩藩の討幕運動の背景には、治水事件の怨念があったと言われています。海津町の公園に薩摩藩士を慰霊する治水神社が建ち、長い堤防には千本松原が残っています。

江戸時代の難工事で分流した長良川は、逆に近年の国営事業により河口近くで揖斐川に吸収され、河口堰が築かれました。河口を通る伊勢湾岸道路に長良川の表示が無い理由です。

<島津家の家紋が掛かる治水神社:海津町>
<島津家の家紋が掛かる治水神社:海津町>

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