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中部

5_12 韮山反射炉と狩野川放水路

<韮山反射炉:鉄の補強枠は世界遺産に不似合い、別な補強法はないのか>

伊豆の西海岸にまだ道路が出来ていない時分から、伊豆に何度も通っていると言ってもいいほど何度も行っています。道路事情など大きく変わっても、魅力は変わりません。今回は韮山反射炉と狩野川放水路です。おらく今度が伊豆の旅になります。

韮山の反射炉/幕末に外国船の接近によって国防が喫緊の課題となりました。幕府は「外国船打払令」を出して、代々伊豆代官職を継ぎ、幕府勘定吟味役に就いていた江川太郎左衛門(英龍)に命じ、江戸湾入り口に台場を築造しました。その遺構は今も「お台場」として残っています。

日本の鉄砲などは、鍛造によって巻き付けて作っていたので、接合部分の弱点があり、大砲には耐えられません。反射炉では、不純物のある銑鉄を千数百度の高温で溶解し、鋳型に入れて円筒を作り出します。反射炉は、コークスがない時代、木炭を利用したので、高熱を得るため、炉の天井や側壁から熱を反射させることからの命名です。

海防の責任者となった太郎左衛門は長崎に赴き、オランダの技術を習得していた高島秋帆に師事し、大砲鋳造法を学びました。1857(安政5)年、自邸に近い韮山に反射炉建設の準備に掛かりました。しかし、多忙のため病を得て、反射炉の完成を見ずに逝去しました。その後、子の英敏によって3年後に完成、大砲の鋳造に成功しました。実際に稼働した日本の最古の反射炉となり、当時の姿を今に残しています。大砲はお台場に据え付けられました。ただ、その後幕府の開国政策により、1864(元治1)年に稼働を終えました。

韮山の高炉は、諸外国の大砲製造の水準に匹敵、あるいはそれを超える技術と言われています。現在、「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産になっています。

伊豆は、海を通していち早く諸情報が入手できました。太郎左衛門はパンが戦場食に適することから、日本で初めてパンを焼いた人として「パン祖」と呼ばれています。

江川太郎左衛門英龍は伊豆の地が英傑と言えるでしょう。

江川邸は江戸初期に建てられた武家屋敷で、国指定重要文化財に指定され一般に意公開されています。

狩野川放水狩路/那珂川の支流の川の縁で育ったあったことから、洪水の恐ろしさを身近に体験していました。そういう中で、中学生の時「狩野川台風」の惨状を白黒テレビで見て、洪水の恐ろしさを改めて感じました。避難所そのものが流されるなど想像を超える大洪水になり、中下流の旧大仁町や旧韮山町などで、史上まれにみる死者を出しました。

その後、狩野川では洪水対策として放水路の3本のトンネルによって洪水時には西海岸に放流することは知っていましたが、見る機会がありませんでした。

狩野川は、天城峠付近を水源として、浄蓮の滝を流下して小河川をあわせ、伊豆半島を縦断、蛇行しながら中下流では沖積平野を形成し田方平野から沼津で駿河湾に流れ込みます。川の延長はわずか50キロ未満ですが、半島が太平洋に突き出ていることから、台風や低気圧の通過で集中豪雨に見舞われ、さらに、火山性の土質のため土石流が発生します。

洪水時にトンネル側に越水するようになっている仕組みで、平常は水が流れていません。信濃川の分水を見た後だったので拍子抜けでしたが、川の長さと水量を考えれば当たり前です。

一方で、放水路が出来たことで、住宅用地が広がり、中小河川が本流に流れ込めない、あるいは逆流するなどの内水面氾濫が起きていると聞きました。これは伊豆だけに限りません。

なお、我が家の旧屋の下の河川は、両岸がブロックの擁壁、河床は掘り下げられ岩盤が露出、人と川の関わりが途絶し、魚の住む環境が失われました。環境にやさしい工法がないものでしょうか。

放水路を見てから、再び電車に乗り終点の修善寺でそばを食べ、河津駅に乗って天城峠を越えて東海岸に抜けました。

<3連トンネルの狩野川放水路:普段は通水していない>
<3連トンネルの狩野川放水路:普段は通水していない>

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