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中部

5_10 清水湊と一身二生の次郎長親分

<甲州廻米置場跡の碑:現在も山梨県の所有地>

「一身にして二生を経る」は福沢諭吉の言葉で、幕末から明治維新という激動の時代に身を置き、一生の間に大きく違った時代を体験したことに由来します。諭吉と同じ時代に、文字通り「一身二生」を送った清水次郎長と、その舞台となった清水湊の旅です。

清水湊の隆盛/清水駅を降りると、多くのクレーンとSuzuyoと書かれた倉庫群が見えます。サッカー清水エスパルスのスポンサーで、鈴木与平が江戸時代に創業した物流会社です。

清水は、東海道18番目の江尻宿があった宿場で、また三保の松原の砂州で波浪から守られた風待ち湊でもあり、江戸時代から水陸交通の要衝として栄えていました。

さらに、幕府領が多い甲州の廻米は富士川で川下げされ、清水湊で大型船に積み替えられて江戸に回漕されました。その名残で、港近くの一等地に山梨の県有地が残っています。

古くから漁業も盛んで、冷凍マグロ水揚げ額は日本一となっています。シーチキンで知られる「はごろもフーズ」は三保の松原の羽衣伝説が由来で、清水が発祥です。

侠客の一身二生/ラジオで平沢虎三による講談「清水次郎長伝」を聞き、次郎長が東海道一の大親分であること、「バカは死ななきゃ治らない」という子分の森の石松のことなどは子どものころから知っていました。ただ、その後の次郎長については、この旅での発見です。

幕末から維新にかけての混乱期、博徒のような裏社会に治安維持を任せることがありました。その代表が清水次郎長で、街道警備役に就いて「東海道一の大親分」となりました。

明治維新後、次郎長こと山本長五郎は、地元の主産業である茶をアメリカへ輸出するため、大型船が接岸できる近代的な港への改修を図り、清水発展に寄与しました。

開港とともに来航する内外の賓客のために船宿「末廣」を開業しました。今も「清水港船宿記念館」として残っています。貿易と関わったことから英語教育の必要性を察知し、日本初の英語塾も開設しました。さらに富士山麓の荒蕪地の開墾にも当たり、今も次郎長町の地名が残っています。社会事業面でも尽力したことから、葬儀の際は3000人の弔問者が列をなしたと言います。菩提寺には銅像が立っています。

富士川水運を学ぶはずの旅が、人を束ねる力、命を懸ける度量、先見性など、次郎長の生涯を知る旅になり、翻って「一身一生」もままならない自分の非力を痛感しました。

青春18きっぷでの日帰り旅行です。帰路は少し贅沢してグリーン車の2階席に座り、ラッシュのホームを見下ろし、シーチキンでビール飲みながら帰ってきました。

<次郎長創業の船宿末廣:資料館になっている>
<次郎長創業の船宿末廣:資料館になっている>

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