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生活の基本 衣と食と住

穀物があまり実っていない時には、庭先で婆ちゃんが「今年の小豆はあいが多くて」と、「さい突き棒」を打ちながら世迷言をする。「あい」は実と滓(かす)の中間のもので、箕で振るえばようやく先端に残るようなものである。「あい」をさらに良く選別して、米は団子にしたり、小麦は煎餅などにして、無駄にすることはなかった。小麦の「あい」をさらに選別して、粉にした残りの外皮は馬に食わせる「麬(ふすま)」になった。決して無駄にすることはなかった。

あい

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入り口を入ると、台所と呼んでいた広い土間があり、その奥は広い板の間で、真ん中に囲炉裏があった。板の間に上がる縁が「上がりっ端」である。隣の婆ちゃんが来ると、「上がりっ端でなく、ながへおはいなんしょよ」(上がりっ端でなく、中にお入りなさいよ)と勧める。行商などの訪問時には上がりっ端で用を済ます。足も洗わず上がると、上がりっ端ばかりか、奥の方まで泥足の「あしっと」(足跡)が残ってしまった。

あがりっぱな

上がりっ端
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足の半分の藁草履。川に入る時に滑り止め手水切りを考慮して、「足半」を履いた。耐久性がないから、農家の「夜わり」仕事で、「足半」や草履作りは欠かせない仕事であった。爺ちゃんの真似をして、藁縄を足の指に掛けて編んでみたが、形の良いものは出来なかった。「足半」を編んだ最後の世代であろう。

あしなが

足半
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商品名で方言ではない。戦後、少しずつ物が豊かになって来た象徴が「味の素」である。客が来ると漬け物の表面が見えないほど味の素を掛けた。頭が良くなるということで、砂糖のようになめた。いつの間にか容器の穴が大きくなり、消費を増やそうとしていることに気づいた。果たして「グルタミン酸」が効いたのかどうか、今は使わなくなった。

あじのもと

味の素
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餅米で蒸かす赤飯でなく、粳(うるち)に小豆を入れた御飯。餅米は収量が少なく高価であったからである。あらかじめ塩味で煮ておいた小豆を汁とともに炊き込んで、赤い色を出すようにしていた。「こと日(お祝いの日:農事を休む)」に炊かれた。日本人が赤米を食べていた古い時代の名残であろうか。

あずきめし

小豆飯
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粗塩(あらじお)の塩辛さが直接舌に感じられるような味。煮物などでいつまでも塩っぱさが残るようなもので、「あだ」は、むやみにという接頭語であろう。調味料など無い時代には、塩加減が難しい。塩が少なければ「うすら塩っぱい」ので物足りないものになる。塩の加減が味の決め手であった。

あだじょっぱい

あだ塩っぱい
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「あぶく」と同じで、泡(あわ)のこと。「あぶく立った煮立つった」という童謡は「あぶく」だが、八溝では「あぼこ」であった。御飯の釜が吹き上がった状態を見る目安も「あぼこ」の立ち方である。そろそろ薪を引いて余熱で蒸らすことになる。

あぼこ

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実際に「甘い」のでなく、塩味が不足している時に使う。「味噌はいいあんべか(味噌はちょうど良いか)」と聞かれると、「甘くてダメだね」と答える。砂糖が入りすぎたのではない。塩味が足りないのである。さらに味噌を加える。今の甘いとは違い、しょっぱいの反対語ではない。味が薄いのである。

あまい

甘い
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納屋のことだが、煙草農家では乾燥場(かんそば)という。乾燥場の床面の半分は堆肥を発酵し保存する場所に使い、隅には便所があった。雨天の際の子どもの遊び場にもなった。煙草農家では母屋よりも雨屋の方が大きい家も多かった。乾燥のために炉が切ってあり、煙草熨(の)しなどの夜なべの鍋を突っ掛けておいた。たばこの耕作がなくなった今、痛んだトタン屋根の大きな雨屋が目立っている。過疎化の象徴の感がする。

あまや

雨屋か天屋か
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食事の後片付けのこと。「までる」は整理をすることなので、食事の後にきれいに整理することをいう。30年代までは水道がなかったので、土間の片隅で、暗い電球の下、洗剤もない「洗いまで」は苦労も多かった。母の手は、冬はあかぎれだらけであった。そのうえ、炊事にはそれぞれの家庭の風習があったから、嫁と姑の確執の多くは、「流し」での「洗いまで」に起因した。

あらいまで

洗いまで
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戦後間もない20年代の半ばまでは救荒作物として粟を作っていた。傾斜地の痩せ地で、しかも乾燥にも強かったのであろう。粟は五穀の中でも古くからの作物と言われている。穂刈りで、穂の部分を藁で縛って軒下に吊しておいた。これも古い作物の収穫法である。その名残である正月の粟餅は、粟と餅米を混ぜた物であったが、どの程度の割合であったかは知らなかった。餅米だけのものと比べ、粘り気がなく直ぐにひび割れが入り、美味しいものではなかった。私たち世代が粟餅の最後になるであろう。今は健康志向により雑穀が珍重され高級食品となっているが、果たして粟は食べられているのだろうか。

あわもち

粟餅
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芋を刺す竹串は芋串、他に魚を刺す串は「よーぐし」と言っていた。古典には「うお」でなく「いお」と出てくる。「いおぐし」には古い日本の音声が残っているといえる。本来、「うお」は料理をする前のもの言い、料理した物が肴(さかな:酒菜)となる。魚河岸は「うおがし」はまだ料理しない鮮魚類を扱っている。子どもの時代に何気なく使っていた「いおぐし(ようぐし)」が古い日本語の流れを伝えている。「いおぐし」には川で捕獲したアイソ(ウグイ)などを刺して囲炉裏で焼いた。時にはクチハビ(マムシ)も串刺しになっていた。

いおぐし(よぐし)

魚串
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スルメのこと。「いが」と濁音化していた。イカといえば生の物も干物も含んでいたからスルメという言葉はなかった。八溝の30年代初めまでは、干した魚か中心で、生ものはほとんど無かったから、すべてが「いが」である。高校生になって、下宿をして、初めてイカとスルメの違いが分かった。

いが

烏賊
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喉越しが悪く、いぐいこと。ジャガイモの緑の部分を十分除去しないで煮たものは、「いがらっぽく」て食べられない。自宅で作るコンニャクもあく抜きが足りないものも「いがらっぽく」なる。スーパーで買ってくるものはきれいにあく抜きもされているから、これからの人たちには「いがらっぽい」という食味もなくなるであろう。

いがらっぽい

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燃えている薪や炭を灰の中に埋めることで、酸素を断ち、それ以上燃えないようにすること。囲炉裏の残り火を寝る前に灰の中に埋けて、鉄瓶を載せておくと、翌朝まで温もりを保ち、熾(おき)は灰を取り除くと再び燃え出す。マッチを使わなくても済む。これを種火として、十能で竈(かまど)に運び、御飯を炊いた。

いける

埋ける
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挽き臼のことで、「いしうす」が転訛した。「Isiusu」の連母音のiが脱落して「いすす」となる。粉を買うようになったのは、高度経済成長期の昭和40年代に入ってからであろう。それまではどこの家庭でも石臼があり、団子を作る米粉、そばを打つためのそば粉など、すべて自家製であった。左手の親指で穀物を穴に入れて、右手で石臼の取っ手を回す。入れる量と回転する速度で粉の善し悪しが決まる。石臼の間から白い粉がこぼれ落ちる。石は御影石であった。「いすす」が家庭から消えたのに、そば屋では「石臼挽き」の看板を上げている所もある。製粉に際して高温にならない石臼の特徴を利用して、味の変化を抑えるためである。今は「いすす」が庭石のように植木の下に置かれている。

いすす

石臼
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囲炉裏のある部屋は仕切りがなく天井もない板の間であったから、夏は涼しくて良かったが、冬は雑巾が凍ってるほどの寒さであった。外から人が来れば丸見えである。爺さんは横座を動かなかったが、その他は序列に従って席があった。家族が一緒に食事を摂るが、憩いながら食事をするという雰囲気は無かった。早く「おわし」て席を立った。板の間は姉たちが雑巾掛けをしていたから、いつもピカピカだった。

いたのま

板の間
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1里は4キロ、徒歩だとほぼ1時間の距離である。固い黒飴はほぼ口の中で1時間ほど溶けずに楽しめた。なかなか減らないという意味の「むそい飴」であったが、最後まで舐めていられず、途中で「食っちゃし(噛み砕い)」てしまった。今も黒飴が売られているが、一里飴とは表記されていない。

いちりあめ

一里飴
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外出用の一番良い衣服。「いっちょらい」は「一張羅(いっちょうら)」の転訛。一張羅の語源は不明だが、「羅」は上等な布地を指したから、特別な衣服であろう。江戸から入ってきた言葉であろうが、漢字の字音が耳から入って転訛したものであろう。町に行く時は普段着と違う「いっちょうらい」を着ていった。

いっちょらい

一張羅
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「燻(いぶ)す」は広く使われ、秋田名物は「燻りがっこ」である。これは意識的に燻すことで、保存食を作ることだが、意識的に燻すのでなく、風のない夕方、囲炉裏の他にカマド、風呂釜でも火を焚いているので、煙が家中にこもってしまう。目をしばたたかせながら「いびーな」と言って戸を開け放つ。この煙は藁屋根の燻蒸効果とともに、時には蚊遣火(かやりび)の代りともなった。

いぶい (いびー)

燻い
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当てる漢字は不明である。米と麦を一緒に炊くと麦は半煮えになってしまう。そこで、米より先に「洗麦」して水に浸し、囲炉裏にかけて煮ておく。イマシ麦である。その後、米と一緒に焚けるつぶし麦(押麦)が登場し、「います」必要がなくなった。米よりも麦が多いご飯は、温かい時にはネギ味噌でおいしく食べられたが、冷えると粘り気がなくなってしまった。特に弁当にするとぽろぽろになって箸から落ちてしまうほどであった。麦は軽いので、炊き上がると、上の方になるから、4人分のお弁当は、下の方の米を詰めて、残りを米と麦を混ぜるので、朝飯は麦ばかりであった。

います

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米が十分でない山村の正月は芋串で過ごすのが習いでった。芋と言えばサトイモのことである。子供のころには、三が日が早く明けないかとばかり願っていた。正月に米でなく芋を食べる風習は畑作中心地で広く行われ、今でも正月には餅をつかない地域もある。「串芋」とは言わなかった。

いもぐし

芋串
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手押しの「がッちゃんポンプ」が入り、今まで釣瓶(つるべ)で汲み上げたものが、一押しするたびに水がほとばしり出るようになった。それでもまだ井戸から手桶で運んで水瓶(みずがめ)に貯めておかなければならなかった。さらにその後、高性能の手動ポンプが導入され、井戸から離れた炊事場やお風呂場まで導水管で繋がった。内井戸である。家の中で水が自由に使えるのは、革新的なことであった。その後山間まで町営水道が布設され、水の苦労から解放された。

うちいど

内井戸
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綿に弾力性がなくなり、保温性もなくなるので、何年に1度か「打ち返し」をした。布団屋の看板には「打ち返し」と書いてあった。布団屋の工場(こうば)の中にはモーターと綿打ち機械を繋ぐベルトがキシキシ音を立てて回っていた。どんな工程があるのかは分からない。後日、出来上がった蒲団が紙に包まれて届いた。洗っておいた「蒲団皮」に真綿でくるんだ綿を入れて作り直されたふわふわした蒲団は格別であった。

うちっかえし

打ち返し
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薄めること。「お風呂熱いんで少しうめとこれ」と言われ、水を加える。今は水道の蛇口を捻れば温度の調整が出来るが、薪で沸かす「せーふろ」の温度調整は「かん混ぜ」、熱ければ外の井戸から手桶で汲んで「うめる」ので、少々のことでは我慢して入ることもあった。「塩っぺ」すぎる時なども、お湯で「うめる」ことになる。共通するのは熱いものであれ濃いものであれ、水によって希釈することにある。

うめる

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仕切りもない開放された古い家屋で、六畳の「うらざ」は別であった。人寄せがあっても開放されることはない。年寄り夫婦は奥の間、あるいは入りの間という座敷で起居していた。、裏座は嫁様の唯一安住できる場所であり、母子センターが出来る前は自宅で出産する際の産室にもなった。昭和30年代になると生活改善運動が進められ、厩(うまや)が外になり、風呂と流しが衛生的になり、囲炉裏がコタツになってガラス戸で仕切りができ、さらに裏座も窓ができて明るくなった。一方で、婆さんが気軽に「お上がんなんしょ」と言っていたが、気軽に訪問することができない雰囲気になって来た。

うらざ

裏座
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背戸口とも言った。木小屋に行って薪を持ってきたり、外便所にも出入りしたりと、日常生活では最も多く利用する出入り口であった。「背戸(せど)っ口」とも言い、真北でなく雨屋に繋がる西側にあった。戸車が不調であったから、戸を手で持ち上げながら開け閉めをした。何事に付け、不便だから直そうという気はなく、現状を受け止めていくことが基本であった。

うらど

裏戸
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板の間にある囲炉裏に対して、畳の敷いてある「勝手」にある囲炉裏。夏場は使わず、普段は畳が敷いてあったが、冬になると畳を剥がして、囲炉裏の熾(おき)を運んでコタツにした。囲炉裏と違って煙いこともなく、居心地が良かったので、首っきり入ってズボンを焦がしたこともあった。

うわいろり

上囲炉裏
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一番奥の畳の部屋で、杉板の天井があり、床の間も付いている。普段は使わず、祝儀不祝儀の際に襖を外して2部屋続きの人寄せの場となった。泊まりの来客のためにも使われた。地域公民館がない時代は、各戸が持ち回りで宿(やど)になったから、床の間に掛け軸を掛けてお庚申様の集まりも上座敷でやった。日ごろは無駄な空間であったが、外見を大事にする田舎の家では大事な空間であった。

うわざしき

上座敷
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屋外の外便所に対して、家の中の一番奥に張り出したように便所が上便所である。お客さんと年寄り夫婦だけが使っていた。外便所には電気(電燈)がないので、夜中の小便はついつい縁側からすることになり、敷居を濡らすことになって叱られた。今でも腰に手を当て前につきだして手放しでやる習慣が抜けないで、サービスエリアなどで恥ずかしい思いをすることがある。人糞が大切な肥料であった頃は、汲み取りやすいことから、外便所が使われた。

うわべんじょ

上便所
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本来の蒲団(ふとん)は漢字が示すように、蒲(がま)を丸く編んで作った「円座」で、座蒲団のことであった。やがて四角の寝る蒲団を指すようになり、座る方はわざわざ「座蒲団」というようになった。今の座布団の中には綿が入っているが、綿花は高価でもあったから、子どもの頃は、藁で編んだ俵の「さんだらぼっち」の円座が座蒲団代わりに使われた。

えんざ

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標準語では「いぐい」こと。ジャガイモの青い部分を十分にそぎ落とさないと「何だって今日のお汁はいごってな」ということになる。「えぐい」が「いごい」になり、語末に「たい」が付き、状態がはなはだしくなっていることことを表した。自家製コンニャクのあく抜きが十分でないのも「いごったい」食べ物の典型である。子供のころの味が懐かしくなり、時にはエゴッタイ味のするお煮しめや、渋い味のする干した固いニシンが食べたくなる。

え(い)ごったい

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香辛料のこと。子どもの頃に、香辛料を買うことはなかった。赤く熟した唐辛子は軒の下の竹竿に干しておき、必要な時にすり潰して使った。ミカンの皮を干して粉にし、山椒の実などを加えた「七色とんがらし」は手作りであった。ネギや大根も「おからみ」の一部である。

おからみ

お辛味
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副食の菜におが付いたもので、今はおかずという。広辞苑には、おかずはもともと宮中の女官である女房たちが使っていた女房ことばで、「数を取り合わせることから、飯の菜(さい)となった」とある。当地方でも丁寧な表現の「お」を付けて「お菜」と言っていた。いつから「おかず」になったのか、少なくとも子供のころは「お菜」であった。

おさい

お菜
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強盗ではなく、押し入れのこと。押し入れよりも、さらに無理に入れ込む感じがする。古い家には押し入れが付いていなかったから、納戸と言うべき「裏座」に、蒲団はもちろん何でもかんでも押し込んでいた。その習慣のため、畳んで入れるという習慣ができず、今も家庭のトラブルとなっている。

おしこみ

押し込み
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「下地」は基礎となるものの意。接頭語「お」を付けることで、料理の食べ物の味付けの「したじ」を指すようになった。一般には味付けの基本となる醤油をいうが、当地方では醤油ばかりでなく、味噌で下地を作ることもある。煮物の基礎となる汁のこと全般を指した。

おしたじ

お下地
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藁葺き屋根で藁を内側と外側で挟んで抑える竹のこと。葺き替えをしないでいると、麦わらが腐って、外側の「おしぼこ」が露出する。いかにも「びーだれた」(落ちぶれた)感じがした。藁は葺き替えの度に入れ替えるが、おしぼこは何度も使う。家の中で火を焚いていることから、虫に食われることなく、黒光りしていた。この篠竹はどこから調達したのであろうか。家の周囲にはない。

おしぼこ

押し鉾
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「おむつ」は襁褓(むつき)のことで、語頭に「お」が付いて語尾の省略される例である。おむつは主に関西で使われ、関東では「おしめ」と言っていた。「おしめ」という語感が嫌われたのであろう。
「おしめ」は使え捨てでなく、子どもがいる家では白い晒しの「おしめ」が、家の前の目立つ物干しに通してあった。子どもが生まれた誇らしさが見える。爺ちゃんが中気で倒れてからは、婆ちゃんが古い着物で作った「おしめ」を川で洗って、屋敷の後ろに目立たないように干していた。

おしめ

お湿
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味噌汁を椀に分ける際に用いる玉杓子。木製であったから角度が付いていないうえ、深さがない。やがて金属製の角度のついたものが普及して、1度で汁椀に分けることができるようになった。八溝の空き家に帰って食事をする時には、今でも木製の玉杓子を使っているが、オタマジャクシの語源ともなる「お玉」と言って、「おしるぐみ」とは言わなくなった。

おしるぐみ

お汁汲み
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支えをすること。「心張り棒(戸口などのつっかえ棒)おっかっておけ」などと、しっかりと支える時に使う。語感としては、縦の物に斜めから支えをすることである。人を当てにして「おっかかり(押っ掛り)」、努力を惜しむこととは別な言葉である。

おっかる

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味噌汁のことで、もともと宮中の女官が使っていた女房言葉であるという。江戸から伝播してきたものであろう。標準語では「お味おつけ」と言う。「お付け」は、本来は本膳の添え物で、お吸い物のことだが、我が家の方では、御飯のおかずになるような塩っぱいものを指した。根菜や菜っ葉などの具がたくさん入っていて、主食の足しにもなるし、おかず代わりにもなった。味噌仕立ての汁で、宮中の女房たちの言うような上品な吸い物ではない。

おつけ

御付
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手塩皿のこと。大家族では一人ひとりには盛りつけをせず、鍋や大皿のままだったので、自分のものだけ取り分ける皿が必要であった。お膳には、飯茶椀と汁椀の他に、おかずを取り分ける「おてしょ」の三点セットになっていた。もともとは不浄を払う塩を盛った皿であったが、今は名前も使われず、取り分け皿になってしまった。

おてしょ

お手塩
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飯櫃(めしびつ、あるいはいいびつともいう)のこと。炊いた御飯が傷まないように、木製の桶に入れて水分を吸収させた。その後、花柄模様の電気保温ジャーが登場し、どの家庭にも普及した。いつでも温かい御飯が食べられるのは画期的であった。それに伴って「おひつ」不要になってしまった。以前は、どの家にも常備されたものであった。

おひつ

お櫃
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座敷と板の間を仕切る板戸で、真ん中付近に帯び幅程度の縦の桟(さん)が通っていたもの。風通しや採光には好かったが、冬の寒さが直接入り込むので、囲炉裏を使わなくなってコタツになるとともに、障子紙で塞いでしまった。日本の住居は、『徒然草』にもあるとおり、「夏をむねとすべし(夏の暑さを中心する)」ことから、寒さ対策は二の次であった。

おぴと

帯戸
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赤飯のことである。お祭りに赤飯をお供えするのは、古代の赤米を食べた名残であり、釜で炊くのでなく、蒸籠(せいろ)で蒸かすことも古い食文化の名残であろう。我が家の赤飯は陸稲(おかぼ:おかぶと言っていた)であったから、今食べる赤飯のように粘り気はなく、こそっぱかった(食感が悪い)。それでも麦が入っていない「こわめし」は美味しかった。蒸籠はすでに金属製のもので、今も残っている。

おふかし

お蒸かし
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「まんじゅう」に接頭語「お」が付いて、語尾が省略された。「強飯(こわめし)」が「おこわ」になったり、「玉杓子」が「おたま」になることと同じである。子どもの頃の饅頭と言えば、小麦の皮に包まれた「炭酸饅頭」であった。釜の蓋(8月1日)などの祭事に作るもので、甘い物に飢えていた子どもたちにとって、待ちきれない御馳走であった。ただ、小麦の皮の部分が厚くて、餡が少ないのが不満であった。餡を食べて、気づかれないように皮は捨てることもあった。「薄皮饅頭」と称してお土産に売られているのは、家で作るのが「厚皮」であったから、人気となったものであろう。

おまんじ

お饅頭
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つば釜で大人数の御飯を炊くのは、とろ火にして「蒸す」のが、美味しく炊くコツであった。下の方には焦げが出来る程度が一番いい。「おもす」は米などを蒸す以外にも、心の中にしまっておいたり、腫れ物をしばらく放置して置くなどの際にも使う。「もう少しおもして置けば膿が出っから」などと使った。本心を表に出さず、心の中におもしていることもあり、時々爆発した。電気炊飯器が登場して、おもすことも必要なくなった。さらに心の中に我慢して「おもす」ことも少なくなって、ストレートに自己表現をする人が増えた。別に、ニワトリが抱卵することにも使った。

おもす

お蒸す
生活の基本 衣と食と住

夕食に丁寧の「お」を付けた。「おいはん」ともいう。男の人たちは「晩飯(ばんめし)」と言っていた。うどんやすいとんなどの麺類と、自家製の野菜などが入った汁が中心であった。副食があるわけでもなかったから、食後の語らいもなく、さっさと「おやし」(終わりにし)て席を立った。腹が満たされれば十分であった。迷い箸をするほど何品も出る今と比べたら、半世紀前は全く別世界である。

おゆはん

お夕飯
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「汚し」に接頭語の「お」を付けた。「ごま汚し」などの和え物をいう。ゴマなどばかりでなく、クルミは、金槌で割って串の先でほじくり出した。婆ちゃんの指示で、擂(す)り鉢を股の間に挟み、山椒の木で作った擂りこぎ棒を使って、和え物の材料作った。砂糖が少しでも入っていると格別に美味しかった。

およごし

お汚し
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トイレットペパーのことである。とは言え、今のペーパーとは全く違い、新聞紙を切って箱に入れておくとか、「家の光」などの雑誌そのものが置いてあって、それを破りながら使った。硬い紙でしかも腰がないから破けて汚物が手に付くこともあった。鼻紙も新聞紙や雑誌であったから、インクが顔に付くことも稀でなかった。やがて、茶色くて固いチリ紙が出回るようになり、劇的に変化した。婆ちゃんはチリ紙で鼻をかんでも捨てずに乾かしてまた使っていた。そういう姿を見て育ったせいか、テッシュペーパーは1度で捨てずに、団子のように固まりになりまで何度も使う習慣が身に付いてしまった。いつからか日本人はみんな潔癖症になってしまった。

おんこがみ

生活の基本 衣と食と住

子どものころの思い出は何と言っても食事と排便のことが一番である。戦後の子どもたちにとって「おんこば」は何と言っても強烈に記憶に残っている場所である。人糞が肥料として大事な物であったから、排便の行為は二次的なもので、汲み取りやすさの方が重視された。便壷に2本の板を差し渡しただけの簡単なものであった。子どものころは恐ろしい場所でもあり、直ぐにでも終わりにして出ていった。夏には銀色の便所蜂がいて飛び回り、夜にはかんかんめ(蚊)に責められ、便壷の中にははい(蝿:はえ)の幼虫のウジ虫がウヨウヨしていた。我が家では、父親が「新し物好き」であったから、改良便所を取り入れ、くみ取りと排便の場所が違うものになり、恐怖から解放された。古代の「かわや」からほとんど変わっていないのではないかと思われる。

おんこば

おんこ場
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八溝の「おんどこ」は、サツマノの苗や煙草の苗を育てるための苗床。周囲を藁で囲い、木の葉をしっかり踏み固め、時々馬小便(ましょんべん)を掛けて発酵を促した。最後には種をまくため、篩い(ふるい)にかけた細かい土をかぶせる。菰(こも)を掛けて保温に努め、乾燥しないように水を打(ぶ)った。現金収入に直接響く作柄を決める大事な作業なので、経験のある婆ちゃんが管理していた。

おんどこ

温床
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食事の準備のこと。「かきまし」がなぜ食事の準備の意味になったのか。「かきまわし」は家計のやりくり全体を指すが、狭く炊事のことの意味になったのであろう。嫁様方から「かきまし」の大変さをよく聞かされた。「かきまし」ばかりでなく、後片付けの「洗いまで」は、暗くて寒い土間の隅での仕事であったから、苦労も並大抵ではなかった。姑とぶつかるのも「かきまし」の際が一番多かった。育ちの違う女同士が一つ屋根で暮らすのは、どっちにとっても気骨の折れることである。「しゃもじ渡し」が済むまでは我慢の連続であったろう。

かきまし

掻き回し
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自在鉤のことを指すが、鉄瓶や鍋の弦を直接掛ける鉤の部分だけでなく、ストッパーの役割の魚(横木)や、支え棒と言われる鉄の棒と、鉄の棒が上下する竹筒までの全体を「鉤っつるし」という。横木は魚をかたどったものが多いが、我が家のものは、一文字をデザイン化したシンプルなものである。一晩中鉄瓶を掛けたままにしておくと、「おともり(子守りのこと)と鉤っつるしは夜しか休めない」と婆ちゃんに叱られた。熾(おき)に灰をきれいに掛け、そのうえに鉄瓶を乗せておくと、翌朝まで余熱を保っていた。灰の下の燃えさしを掘り起こし、杉っ葉を乗せて息を吹きかければ燃えだし、マッチは不要であった。

かぎっつるし

鉤っ吊るし
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ポケットのこと。森鴎外の『舞姫』の中で、主人公がベルリン滞在中、洋服の「かくし」の中の金を女性に渡す場面が出てくる。明治になって洋服が普及するに従って、「隠し」と言うことばが作られた。我が家では叔母がミトンを編んでくれたが、多くの仲間たちは手袋が無いので、「かくし」に両手を入れていた。学校では「かくし」に手を入れていると叱られた。転倒の際に手が使えないからである。明治の新しい洋装とともに生まれた言葉は文学の世界に残るだけで、今は誰もがポケットと言う。短い生命の言葉であった。

かくし

隠し
生活の基本 衣と食と住

部屋の角のことだが、角は「かく」でなく「かず」であった。古い家には押し入れがなかったから、蒲団は部屋の「かずま」に畳んで置いた。寝間着は蒲団の上に脱ぎっぱなしである。何でも「かずま」に投げ置くのは今でも同じである。

かずま

生活の基本 衣と食と住

古語辞書には「け」に食の字を当て、食物また食事のこととあり、食器の笥(け)が食事の意味になったとある。「おけ」は笥におが付いたもので、桶と書く。「け」は朝餉(あさげ)や夕餉の「け」とし残っている。「片」は食事がいつもの半分の回数のことで、1食のことをいう。兼業農家の我が家では母が農作業をしていたので、小学校の高学年いなると飯炊きの仕事を任された。「始めちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣くとも蓋取るな」の教えを守り、火加減も上手になった。今は、自動炊飯器でタイマーをセットし、保温にしていけば御飯も傷むことがないので、「ひとかたけ(1回分の食事)」ずつ炊く必要もなくなった。

かたけ(き)

片食
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「倉の鍵固める」など、戸を閉め、しっかりと施錠をすることをいう。確かなことにするのが語源である。農家では余所(よそ)の人が来ることもなく、近所の顔見知りだけのつながりであったので、留守の時も戸を固めることはなかった。ある時期から「戸締まり運動」が展開されたが、それは農村の社会が変わったことの証である。婚約も「口固め」と言った。

かためる

固める
生活の基本 衣と食と住

掻き込むの促音化したもの。急いで食事をすること。何時までも時間を掛けて食事をしていると、「とっとどかっ込んで勉強しろ(さっさと食って勉強始めろ)」と言われる。何事にも集中していなかったから、食事も家族の中では一番最後になっていた。仕事の出来る人の条件は「早食い早糞」だった。

かっこむ

掻っ込む
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御飯をよく混ぜること。炊き上がった麦飯は温かい内に「かっ立て」ておかないと良く混じらない。御飯だけでなく、地表の雑草や藁を地中に埋めながら鍬で平に耕していくことにも使った。炊事から畑仕事まで場面に応じてさまざまに使い分けた。

かったてる

掻っ立てる
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炊事をする「お勝手」とは違う。煙草農家の勝手は、畳は敷いてあって一家の中心になる広い部屋で、天井は張ってなく、梁が露出していた。農家の住まいは住居であるばかりでなく、作業場であり、農産物の保存場所でもあった。「勝手」は、タバコの季節になれば畳を取り払って乾燥の場となった。人寄せの時には帯戸や襖(ふすま)を外せば宴会場となり、村祭りには映画上映もされた。使い勝手の良い部屋の意味であろう。

かって

勝手
生活の基本 衣と食と住

単に剥ぐだけでなく勢いよく剥ぎ取ることを言う。「布団かっぱかれちゃった」などと使う。また、畑仕事でも鍬で表面の雑草や藁などをカッパイてから丁寧に耕した。この仕事は力が要ったので単に剥ぐでなく、「かっぱいた」のである。今は力仕事が要らなくなったことから使わなくなった言葉である。

かっぱぐ

かっ剥ぐ
生活の基本 衣と食と住

「かてる」は加えること。「かてて加えて」と言う語がある。米不足で米を助けるため、大根やサトイモなどを混ぜた御飯のこと。農家でありながら、米の供出を出来るのはごく一部であった。自給が精一杯であったのに、国全体の食糧不足に対応するため、米の供出が義務づけられ、どの家でも「かて飯」が当然であった。うまいまずいなど言っていられなかった。誰もがそうだから不満もなかった。

かてめし

糅飯
生活の基本 衣と食と住

「生」の鰊(ニシン)のこと。今は生のものもニシンと括られているが、子どもの頃は区別していた。普段は干してカチカチになった鰊を、米の磨ぎ汁で灰汁抜きをして食べていた。時たま生の鰊が食膳に載った。時にはたっぷりと卵が入っていた。「かどの子」であり、今は数の子と言われている。熱々の「かど」に大根刷りと、醤油をたっぷり掛けて食べるものが最高の御馳走であった。海産物とは縁の薄い地域で「かど」と「にしん」がどうして区別されたのであろうか。

かど

生活の基本 衣と食と住

道路から庭先までの門道のこと。婆ちゃんは「いんなか(家の中)は見えねげど、門場きたねど(汚いないと)見場悪いーがら」と殊の外、門場を気にしていた。我が家の門場は50メートル以上あったので、草が生えると、草むしりが大変だった。無人になった今は除草剤の世話になっている。それでも門場だけはきれいにしている。婆ちゃんの教えである。

かどば

門場
生活の基本 衣と食と住

標準語のかぶれるではない。御飯など食べ物にカビが生えて饐(す)え臭くなること。夏などは、煮ておいたサツマが翌日にはカビが生えていることがあった。夏場はすぐに痛んで「かぶれ」てしまうが、まず臭いをかぎ、さらに色が変わっていないかと、鼻と目で食べられるかどうか判断をした。時には口に入れて確かめ、酸っぱければ吐き出した。今は賞味期限を見ながら判断をするから、食べられるものまで捨てることになる。

かぶれる

生活の基本 衣と食と住

「かんそういも」でなく「かんそいも」である。太白(たいはく)という白色の品種のサツマイモは「かんそいも」のために作付けしたもので、普通に食べては甘みが無く粘り気もなかった。収穫したサツマイモをしばらく乾燥させ、蒸籠(せいろ)で茹でて、斜め切りして筵(むしろ)に並べて庭中に干した。放し飼いのニワトリに「かっちらかされない(蹴散らかされない)」ように気をつけなくてはならない。干し上がったイモを缶に入れておくと白く粉が吹いた。晩秋から冬のおやつとして最高であった。固くなったものを囲炉裏で焼いて食べると、またひと味違った。最近の「かんそいも」はお菓子のように甘い。昔の味ではない。

かんそいも

乾燥芋
生活の基本 衣と食と住

今でいうワンピースのこと。洋裁を習ったものなら、誰でも簡単にできることからの命名。もちろん子どものころは意味が分からなかったが、旧来のものとは違って新しいファッションで新鮮であった。町の洋裁学校に通っていた人たちが広めたのであろう、旧来の「もんぺ」などとは違って柄も大胆でカラフルであった。我が家では叔母が学校に勤めていたので、近所では珍しかったミシンを買って「かんたんふく」ばかりでなく、甥っ子のズボンなども縫ってくれた。当時のミシンは今でも座敷の良い場所に残している。

かんたんふく

簡単服
生活の基本 衣と食と住

寒竹笊(ざる)のこと。細くて丈夫な寒竹は近くの土手に生えていたので材料には事欠かなかった。冬になると年寄りが庭先で大小様々な寒竹笊を編んだ。竹を割って編んだ笊より丈夫で、しかも水切りがよかったので、うどんやそばを茹で、水で洗った後にぼっち(小さな山)にしておくのには最適であった。葬式の時にはうどんをたくさん茹でて、寒竹に並べて会葬の近親者の昼食にした。ただ、時間が経って表面が乾いたうどんは、喉に詰まってどうしても好きになれなかった。子どもの頃の体験から、幅の広いうどんが嫌いになってしまった。

かんちく

寒竹
生活の基本 衣と食と住

本来「干瓢」は、ユウガオを薄くそいで乾かした食品を言うが、八溝ではユウガオそのものも「かんぴょう」である。石橋や壬生の方から栽培法が伝播した物であろうが、ユウガオという名前は伝わらなかったか、伝わっても定着しなかったのか。天気の良い日の早朝に実を取ってきて、庭先で特別大きい専用の包丁で輪切りにし、中心部の綿を除いて、掌に入るほどの小さな鉋(かんな)を左手に持ち、右手で外側に回しながら薄く削(そ)いでいく。竹竿に干したかんぴょうは竹に貼り付いてしまわないようにひっくり返す。家庭用の保存食で、翌春の遠足の干瓢巻きにも使われた。「ワタ」の部分は汁の実にした。婆ちゃんの手伝いの「かんぴょう」干しの作業は好きだった。

かんぴょう

干瓢
生活の基本 衣と食と住

ジャガイモのこと。福島県より北の東北地方から茨城県、さらに栃木県の那珂川沿いの芳賀郡を中心に使われる。「かんぷら」は八溝方言がどこの地域との関連が多いかを考えるうえで貴重な言葉である。かんぷらの語源はオランダ語の「あんぷら」が転訛したものという。今はジャガイモであるが、この言葉もインドネシアのジャカルタが語源であるという。塩を入れた五郎太煮の熱々の「かんぷら」は美味しかった。

かんぷら

生活の基本 衣と食と住

今の我が家で一番優しい声はは「お風呂が沸きました」という自動アナウンスである。そのまま適温の中に浸かることが出来る。子どもの頃のお風呂は、薪が豊富であったことからか、木の桶の中に鉄製の釜が埋め込まれている「ひょっとこ風呂」であった。釜の外形にが「ひょっとこ」に似ていたことでの命名。風呂燃ししながら何度か風呂の中を攪拌して上下の温度差を無くし適温にする。そのため「かんまし棒」が必要であった。町の荒物屋などでも売っていたが、我が家では棒の先に板を打ち付けただけの手製であった。一番風呂は決まって爺ちゃんで、熱いのぬるいのとうるさかった。

かんましぼう

搔き回し棒
生活の基本 衣と食と住

掻き回すの転。お風呂を「かんまし」て、上と下の温度差を調整する。ただ、鍋の中の具は「かんまぜる」で、「かきます」とは言わなかった。「回す」と「混ぜる」の違いであろう。「かんます」は人ばかりでなく、「かんまし屋」といって、人間関係を複雑にすること喜びとする人もいる。

かんます

掻ん回す
生活の基本 衣と食と住

足踏み脱穀機のこと。音がガーコンと鳴ることから、通称ガーコン、あるいはガーコンガーコンといっていた。千歯扱きから脱穀機への転換は大きな変化であった。お陰で「稲扱き(いねこき)」が言葉だけになった。足でペダルを押しながら、籾が残らないように、稲束を手で回転させながら、V字状の金具が埋め込まれているドラムに当てた。稲だけでなく大豆や小豆の脱穀にも使った。その後モーター式のものに替わったが、兼業農家の我が家では、足踏み脱穀機の「がーこん」で終わりであった。

がーこん

脱穀機
生活の基本 衣と食と住

広辞苑に「毛小屋」は物置小屋のこととして出ているが、「木小屋」は出ていない。母屋に差し掛けた片屋根の薪(たきぎ)置き場のことである。毎日の炊事や風呂に欠かせない薪や焚き付けの杉っ葉を、雨に当たらないように、母屋や納屋の庇(ひさし)にさっかけ(差し掛け)を作って保管した。竃(かまど)や風呂場に近いことが必須である。

きごや

木小屋
生活の基本 衣と食と住

囲炉裏の横座にはいつもじいさんが座っていた。一番煙いところであるが、当主はいつも渋い顔をしているのが一家を守る上で大事だと聞かされた。横座の反対が薪をくべる木尻である。木尻の意味は、木の元に対して先端の方をいう。囲炉裏には横座の方に薪の太い方からくべるから、木尻は反対側になる。薪の「木尻」が囲炉裏の席の名前になったと思われる。身上渡(しんしょうわたし)をして、家計は譲っても、横座は死ぬまで爺ちゃんの席である。縄文時代から変わらず、炉が一家の中心であった。

きじり

木尻
生活の基本 衣と食と住

木の端の「きっぱじ」のこと。大工さんが柱を切って余った先端は「きれっぱじ(切れ端)で別なものである。「きっぽっぱじ」はどういう漢字を当てたらよいか。「きっぽ」に木片の意味があり、さらに「端」が付いたものか。粗朶(そだ)を竃(かまど)にくべる時に膝で折ったりすれば、必ず「きっぽっぱじ」が出る。「きっぽっぱじ」を箒で集めて竃にくべる。毎日の仕事であった。

きっぽっぱじ

木っ端
生活の基本 衣と食と住

落ち葉を熊手で集めること。畑作地帯では堆肥は不可欠な作業であった。初冬になると、「ナラやクヌギの木の葉山」の下刈り(下草刈り)を始める。刃が厚くて小ぶりな下刈り鎌を使って篠や藤蔓をきれいに刈り払う。少しでも切れなくなると、腰に下げた砥石で研ぎあげる。砥石は真ん中が減って三日月形になっていた。水はないから(唾つば)を吐いて代用した。子どもたちの仕事は、刈り取った粗朶(そだ)を所々のぼっちに集めることであた。長じて、昭和41年に新任で勤めた学校は、前身が農学校であったので、冬には全員で木の葉さらいをした。女子生徒は半纏(はんてん)にスカーフであった。私は、町場育ちの農業科の先生より上手に木のはさらいができた。キャリアが違う。

きのはさらい

木の葉さらい
生活の基本 衣と食と住

柄の長い刈り込み鋏や剪定ばさみだけでなく、植木を手入れする鋏の総称が「木鋏」であった。松を手入れする盆栽鋏も含めた。布を切る裁ちばさみなどとの対比であろう。爺さんの使っていた木鋏で針金を切って大目玉を食ったことがある。直ぐには買え換えることをせず、荒砥(あらと)を使って研ぎ直していた。道具を大事にする時代であった。

きばさみ

木鋏
生活の基本 衣と食と住

急須のこと。広辞苑では「急焼」の唐音とある。唐音は鎌倉から室町時代に掛けて伝わった新しい音で、茶の習慣とともに新しい道具の名前も伝わった。「きびしょ」は年寄りたちは普通に使っていたが、今は使われない言葉になった。庭先には自家消費だけの茶畑があり、土間には焙炉(ほいろ)があり、すべて自給自足であった。日ごろから爺ちゃんは囲炉裏の横座に座り、「きびしょ」にたっぷり茶葉を入れ、鉄瓶からお湯を注ぎ、大きな茶碗でお茶を飲んでいた。

きびしょ

急焼
生活の基本 衣と食と住

まな板のこと。本来まな板は「俎板」のことで、魚を調理するものを指した。魚を料理することの少なかった八溝地区では「まな板」でなく、「菜板」(さいぱん)ともいった。切り板は野菜も含め、食材全体を包丁で切る板でのことである。両端付近に脚が差し渡した厚いヒノキの板で、真ん中がへこめば、鉋(かんな)で削って使った。板を「ばん」と音読みする方が格調のある呼称の印象がする。

きりぱん

切り板
生活の基本 衣と食と住

多く「茅屋根」と言われているが、実際は藁が中心で、茅を混ぜる「藁葺き」屋根であった。山には「茅場」があり、茅の刈り取りもした。藁が中心になったのは、麦わらは毎年の収穫後に納屋に保管することで、材料費がただだったことによるだろうか。古くなるとスズメの巣となり、麦わらが引っ張り出されてしまうことが珍しくなかった。さらに藁を支える横棒の「おしぼこ」が露出すると、いかにも「びーだれた(おちぶれた)」感じがした。屋根に使われる藁は稻藁でなく、撥水性のある麦わらであった。麦わらは畑の敷藁にも使われた。ストローベリーの語源でもある。茅手(屋根葺き職人)の不足、屋根材の茅が入手困難となり、「草屋根」が一番コスト高となり、今はトタンに葺き替えた。

くさやね

草屋根
生活の基本 衣と食と住

「食い潰す」が語源であろう。ただし家を没落させる意味では使わなかった。固いものを噛みつぶすことに使う。「くっちゃぶす」とも言った。「落花生(らっかせ)の皮くっちゃせねー」と、噛みつぶせなかったのは、虫歯に原因があった。

くっちゃす

食っちゃす
生活の基本 衣と食と住

食い散らかすこと。お膳の上の食べ物を、どれもこれも汚く手を付けると「食っ散らか」しと叱られる。上品さに欠けることである。ニワトリは餌を脚で「かっちらか(搔き散らか)」して、嘴(くちばし)で「くっちらか」した。

くっちらかす

食っ散らかす
生活の基本 衣と食と住

黒豆ではない。田の畦に蒔いた大豆を主とする豆類。平地の少ない八溝では、田の畦(くろ)まで利用した。田植えが終わった畔に、棒で穴を開けて大豆を二粒づつ蒔いた。草に負けないように「よせ刈り」をして養生した。途中で施肥することはなかったが、根粒バクテリアの手助けでそれなりの収量があった。庭先に立て掛けて乾燥させて、「くるりぼー」で鞘から外した。冬の「呉汁」となった。今は、「くろまめ」を作る人はいなくなった。よせ刈りも手刈りから草刈り機になって、「くろまめ」を作っても面倒がみきれない。

くろまめ

畔豆
生活の基本 衣と食と住

「くもち」は苦を持つことから忌まれ、暮れの29日の餅搗きはしなかった。さらに大晦日に搗く「一夜餅」も良くないとされていた。暮れのぎりぎりになって正月準備をいさめることとも関係するであろう。28日は「八日餅」として嫌われ、27日が良いとされた。

くんちもち

九餅
生活の基本 衣と食と住

屋根の棟のこと。雨水の流れを良くして藁の腐れを防ぐため、竹で抑えるなどしてきれいに葺き上げる。最後に、東西の端に屋号を入れたり、火防のために水の字を切り込む。ぐしを葺き終えると近所の人を招いて撒き餅を撒いてお祝いをする。当地方は茅葺きでなく藁葺きであったから、15年もすると新たに葺き替えをしなくてはならない。子どものころに1度は経験することができた。泊まり込みでやってきた会津茅手(かやで)さんの美事な仕事ぶりを見ることが出来た。

ぐし

生活の基本 衣と食と住

「鰹節」でなく、「鯖節(さばぶし)」を使ったので、鉋(かんな)で削ると多く粉になった。値段の安い物であったからであろうか、文字どおり「削りっ粉(こ)」にとなっていた。それでも贅沢品の一つで、自家製の味噌に「けずりっこ」を入れたネギ味噌は格別で、温かい麦飯には良く合った。ネギ味噌を湯で溶いて、けずりっこを混ぜたただけの「コジキ汁」もうまかった。今、スーパーで買ってくるケズリッコはパックに入ったふわふわしていて、味も香りも昔のむかしの「けずりっ粉」ずいぶん違う。

けずりっこ

削り粉
生活の基本 衣と食と住

今はトタン葺きになり、家の中には薪で焚く竃(かまど)や風呂もなくなり、煙出しの必要はなくなった。以前は煙草を作っていたので、乾燥用に火を焚いたから、ぐし(棟)の上には煙出しが付いていた。ただ、冬場になると、風が吹き込み、時には雪が吹き込んだり、木の葉が舞うこともあった。今は煙出しのある家も珍しくなってしまった。

けむだし

煙出し
生活の基本 衣と食と住

言葉の終わりに付けて、疑問の意味を表す終助詞的用法。「そうげや(そうかな)」といえば、十分納得がいかないことになる。反対に「そうげや(そうなんだ)」と、驚きをもって受容した時にも使う。二つの違いはイントネーションで十分理解できる。

げや

生活の基本 衣と食と住

母屋や納屋に差し掛けた片流れの建物。農家には収納するものが多かったので、どの家にも「下屋」があった。少しぐらい雨が吹き込んでも差し支えのないものを収納しておいた。稲を架ける「はって」の杭や竹竿も「下屋」の下に保管したし、囲炉裏や竃(かまど)で使う薪も「下屋」に積んでおいた。

げや

下屋
生活の基本 衣と食と住

広辞苑では「香香」と表記され、漬け物、「こうこ」とある。こうこが濁り、「こうご」となり、さらに丁寧な「お」を付けて「おごーご」と濁った。沢庵も「たくわんこーご」である。「お新香」というと、小皿に丁寧に盛りつけされたものの感じが強く、「おごご」と言えば大皿にざっくりと切られた白菜の漬け物などを連想する。御飯を海苔巻きのようにして食べた白菜の真ん中の黄色い部分は甘くて美味しかった。古くなって酸っぱくなった「おごご」は油で炒めて食べた。無駄にはしなかった。

こうご(おごご)

お香香
生活の基本 衣と食と住

板の間や座敷に続く幅の狭い、板敷きの縁のこと。縁側と言えば外部と建物の境をなす外縁を言うが、小縁は室内にあり、30センチほどと幅が狭く、腰を下ろして休んだり、一時的に道具や野良着を置くことに使う。新しい家には「小縁」が作られなくなったので、言葉も不要になってしまった。

こえん

小縁
生活の基本 衣と食と住

標準語では「粉を吹く」というが、八溝では「粉が吹く」という。干し芋や干し柿の表面に糖分が白く吹き出てくることである。正月に合わせ、干していたものを取り込んで、煎餅缶に入れておくと、真っ白に粉が吹いた。甘い物に飢えていたから、「粉が吹いて」固い干し芋を囲炉裏で炙って食べるのが楽しみであった。

こがふく

粉が吹く
生活の基本 衣と食と住

ネギ味噌をお湯で溶いただけの味噌汁。今で言うインスタント食品である。人を卑しめる「乞食」が付いていることから、粗末な食べ物のことであろう。かつぶし(鰹節)が入っていれば最高の味で、時には少量の砂糖も入れた。風邪気味の時はいつも飲まされたので、今でも喉が痛くなると作ってもらって飲んでいる。

こじきじる

乞食汁
生活の基本 衣と食と住

主食の間に摂る食事。日の長い農繁期は、朝飯前に秣(まぐさ)を刈り、早い朝食を済ませると畑や田んぼに出かけた。力仕事をする人たちにとって、ただお茶菓子程度では済まない。こみっちり食べてしっかど(しっかり)働かなくてはならない。そうかと言って家まで戻っては時間の無駄にもなるので「こじはん」持参で田畑に出掛けた。特に午後の三時頃に食べるものを「こじはん」と言っていた。
なお、時計などもっていない時期には、サイレンが大きな役割をしている。合併前の馬頭では昼のサイレンは11時30分に鳴った。お昼のサイレンが鳴ってヤマ(畑)から帰ってくるとちょうど12時頃になる。合併後は12時に、今風のチャイムが鳴る。平場の農家は、チャイムが鳴れば軽トラですぐ戻れる。「こじはん」という言葉もなくなり、合併により、山間の地はまた大きく変わった。

こじはん

小中飯・小昼飯
生活の基本 衣と食と住

食感がなめらかでないこと。味の問題ではない。喉を通るときに、すっきりしない感触である。団子にする米粉が挽き足りないと米粒が粗く、ざらざらとした「こそっぱい」ものになってしまう。自家製であったから、今のスーパーに並んでる物と違って、「こそっぱい」物が多く、しばしば使った言葉だが、生活の変化とともに、死語になりつつある。

こそっぺー

生活の基本 衣と食と住

農家は草屋根(藁屋根)が多かったが、非農家の中には「杉っ皮屋根」や、「木っ端屋根」の家もあった。杉の材木を薄く剥いで、一定の長さと幅の「木っ端」を重ねて屋根材にした。林業が盛んな八溝で「木っ端」の材料はいくらでもあったが、草屋根よりも高価であったから普及しなかった。今は草屋根も木っ端屋根もなくなり、銀色のトタンの屋根に代わった。

こっぱやね

木っ端屋根
生活の基本 衣と食と住

精米の時に出る粳(うるち)の屑米を、石臼(いすす)で挽いて粉にし、蒸かして餅にする。熨し板で平にしたりせず、半楕円形の棒状にした。砂糖醤油を付けたりあんころ餅にすると、普通の餅とは違った食感であった。豆餅と同じく、半楕円形にするのは糊気が少ないので、割れてしまうのを防ぐためであろう。時間が経つと粘りがなくなり、極端に味が落ちた。

こなもち

粉餅
生活の基本 衣と食と住

「こはぜ」のこと。足袋から靴下にはいつから替わったか。20年代の小学生の頃は足袋であった。少し大きめのサイズを買ったが、何度も洗濯している内に縮んで、「こはじ」を受ける糸が2列あってサイズ調整ができたが、それでもダメになって、ついには「こはじ」が折り返せなくなる。今では足袋が和装の時か一部の職人の人だけの履き物となってしまった。足袋のお陰で、親指が分かれていることから、指の力は鍛えられた。

こはじ

生活の基本 衣と食と住

山間の八溝地区で「こぶ」を使うことはほとんど無かったから、祭りの昆布巻(こぶまき)が御馳走であった。八溝地区は、北前船の日本海から離れ、太平洋からも離れていたので、日本の中でも昆布文化が最も浸透しなかった地方と言える。さらに、煙草の耕作で金肥として茨城や千葉の浜から干鰯(ほしか)が移入されたことから、出汁も鰯であった。そんな中、弁当のおかずに黒く光った「きゃらこぶ」が入れば珍しいことで、こぶを除けた後に米に黒くしみ込んだ部分からまず食べた。今でも、昆布には執着し、熱い御飯に塩昆布を混ぜて食うのが大好きである。なお、八溝言葉では、一般的には語中に「ん」が入ることが多いが、「こんぶ」は逆に「ん」が脱落している。

こぶ

昆布
生活の基本 衣と食と住

大豆を擂り鉢ですりつぶして汁の実にしたもの。方言ではない。煮立った味噌汁の中に入れると、ふわっと浮き上がる。大豆が収穫される秋から冬の美味しい家庭料理であった。本物の豆腐は町に行かなければ買えない。せいぜい葬式で白和えを作る時に使う程度で、冷や奴などは食べたことがなかった。「ごじる」は大豆の味が残り、忘れられない家庭の味であった。

ごじる

呉汁
生活の基本 衣と食と住

囲炉裏には鉤吊しがあり、いつも鉄瓶が掛かり、火の脇には鍋などをつっ掛ける五徳が置いてあった。3本脚でありながら五徳と言った。脚の下は灰に潜り込まないよう、内側がL字に曲がっていた。五徳の上の鍋は、時々かき混ぜないと、火の方ばかり焼け焦げてしまう。今ではすっかり用済みになったが、鍛冶屋が作った重い五徳が、囲炉裏の灰の中に半ば埋まるように残っている。

ごとく

五徳
生活の基本 衣と食と住

トイレのこと。通常「おんこば」、少し前までは、「手水場(ちょうずば)」、「はばかり」などと言った。その中で、戦後しばらくまでは、女性たちを中心に「ごふじょ」と言っていた。排便は決して不浄な行為でないが、できるだけ現実から遠ざけ、汚さを連想させない表現をするため、言葉が定着するとまた新しい言葉が登場する。便所から化粧室となり、今はトイレという外来語になったった。外来語のトイレは汚さを連想させないから、これからも長く使われるだろうか。それともやがて変わるのかどうか。、

ごふじょ

御不浄
生活の基本 衣と食と住

製材前の丸太を「ごろた」といい、同じように、小さく刻まないで、塊のままの煮たものを「ごろたに」という。暖かいかんぷら(ジャガイモ)の「ごろたに」は小時飯(こじはん)の定番であった。最近は何でも見た目を良くする食品が多く、スーパーにある「きんぴら」などは楊枝のように細く切ってある。八溝の野菜の「ごろた煮」は、大きな煮干しが入っていて、ゴボウやニンジンの素材の味が残っていて美味しかった。

ごろたに

五郎太煮
生活の基本 衣と食と住

ゴールデンバット。煙草の銘柄である。父親が吸っていたもので、薄緑の箱の中に20本の紙巻き煙草が入っていた。爺ちゃんの世代は刻み煙草であったが、父親の時代には紙巻き煙草であった。父親はヘビースモーカーであったから、家で作っている葉煙草を乾燥させ、刻んでは英語辞書を破いて紙巻き煙草を作っていた。紙巻きを造る簡単な器械があった。上質な紙であったから、大事な「コンサイス英語辞書」が煙になった。ゴールデンバットも手に入りにくい時代であったのであろう。

ごーるでんばっと

生活の基本 衣と食と住

アブラザメの皮と内蔵を取り除いたムキサメのこと。普段の八溝地方の魚は塩がたっぷりかけられ、猫も食べないサケの「ねこまたぎ」か、棒のように固く乾燥したニシンなどが多く、刺身と言えば葬式の時に食べる酢ダコであった。そういう中で、ひときわおいしいものはサガンボであった。ぶつ切りにすると、真中に太い骨があり、周りには白身の肉が付いてた。砂糖と醤油で煮た煮凝りは飴色をしていて、とても魚から出てきたものとは思えなかった。サガンボの煮付けは冬の料理の代表で、懐かしい味の一つである。

さがんぼ

生活の基本 衣と食と住

母屋や納屋に差し掛けた簡便な片流れの建物。さらには野菜を貯蔵するために畑の隅、さらには炭窯の近くに臨時にこしらえたものなどをいう。「差し掛ける」という語源からも、独立した建造物ではない。建坪に入らないので、駐車場などにしている立派な「さっかけ」もある。

さっかけ

差っ掛け
生活の基本 衣と食と住

沢庵、刺身などを薄く切ったものを数える時の数詞である。沢庵を勧められ、好きでないので「そーだにいんねがら(そんなにいらないから)ひとさっぱだけでいいよ」といって遠慮する。刺身も「さっぱ」と数えるが、当時は刺身を食べたことがないから、数えたことがない。

さっぱ

生活の基本 衣と食と住

ざくざく切って煮込む意味か。年に何度か、「こと日」など特別な日に作った。すべて自家製のダイコン ニンジン ゴボウ サトイモなどを三角形に切り、コンニャクも入れて煮る。時には油揚げが入っていると、それだけを拾い出して食べた。煮干しの出汁と醤油だけの味付けだが、素材の味がよく出ていた。

ざくに

ざく煮
生活の基本 衣と食と住

箒を何本も背負った箒売りが巡回してきた。庭を掃くたかぼうき(竹箒)は自家製であったが、座敷箒は家を回って歩く箒売りから購入した。竹の柄の短いものと長いものがあって、板の間を掃く時は柄の短いもの、畳を掃く時の柄の長いものを使い分けしていた。「掃き出す」という言葉は普段に使われていたが、掃除機が普及して死語となった。民芸品のようなきれいな糸で編まれた座敷箒が今も柱に掛けられている。

ざしきぼうき

座敷箒
生活の基本 衣と食と住

特別な種類を指すのでなく、ザラザラと音がするような日持ちする安い菓子類。コタツのお盆にはいつも来客用のザラ菓子が入っていた。子どもたちにとっても魅力的なものでなく、手を出さなかった。婆ちゃん同士が茶飲み話で、「ザラ菓子でわりぎっと(ザラ菓子で悪いけれど)」と勧めるが、隣の婆ちゃんは手を出さない。義理で勧めていることが分かっているからである。ザラ菓子は一種の飾りでもあった。

ざらがし

生活の基本 衣と食と住

シーツのこと。子どものころは蒲団に直接寝ていたが、30年代になると葬式の引き出物に白い敷布が登場した。葬式の引き出物は時代を反映しているから、その頃から家庭でも敷布を敷くようになったのであろう。さらに上掛けのカバーも葬式の引き出物になった。泊まりのお客さんが来ると折り目の付いたシーツが敷かれた。大事な接待の一つである。新しい敷布を出せるのも家のステータスであった。今でも封を切らない「敷布」が押し入れの中に入っている。

しきふ

敷布
生活の基本 衣と食と住

お風呂につかること。暗い風呂場から早く出たいので、文字どおりカラスの行水であった。「よぐしずめ」とたしなめられる。母親に面倒を掛けるから、少しぐらい熱すぎても我慢して「しずむ」気遣いをした。

しずむ

沈む
生活の基本 衣と食と住

藁しべを入れた蒲団のこと。「しべ」は屑藁のこと。綿が手に入りぬくかった戦後しばらく、藁蒲団が使われていた。綿が入手しやすくなっても中気で寝ている老人には「しび蒲団」をつかった。燃やしてしまえばいいので、後での片付けもしやすかったのであろう。藁をさい突き棒(木槌)で叩いて柔らかくし、手の指に入れてしごきながら藁を選(すぐ)り、茎から外れた柔らかい屑藁をとる。木綿の布で包めば完成。子どものころの敷き布団は「しび蒲団」で、藁の匂いであった。蚤(のみ)や虱(しらみ)も同衾(どうきん)であった。戦後の10年ほどは綿を栽培し、綿摘みをした経験がある。今も我が家には綿の種を取る種取器が残っている。

しびぶとん

橤蒲団
生活の基本 衣と食と住

「さしみ」に拗音が付いたもの。拗音が脱落することが多い中で、拗音が付くことばも少なくない。いまでも寿司屋に行けば「しゃしみ二人前」と注文する。店主も「今日はマグロのいいのがあってー」と勧めてくれる。「さしみ」の語頭がア段で口をはっきり開けるので、発音がしにくい。口をあまり開けないイ段が耳に慣れて、優しい感じがする。

しゃしみ

刺身
生活の基本 衣と食と住

鮭がしゃけになる音韻変化と同じで「さじ」が「しゃじ」となった。一般的には、「や・ゆ・よ」の拗音が脱落することが多いのに、「しゃじ」は反対である。子どもの頃は、煮豆を分けるときに使う程度で、個人が「しゃじ」を使うことがなかった。昭和30年半ばから、少しずつ洋風の食生活に変化し、カレーを食うようにになって、「しゃじ」を使うようになった。それに伴って、結婚式の引物も洋食器が多くなり、いつの間にかスプーンと呼ぶようになった。

しゃじ

生活の基本 衣と食と住

うどんやそばを釜から引き上げる手つきの笊(ざる)のこと。今は金網で、取っ手もプラスチックや金属で出来ているが、以前は木のざくまた(枝がYの字をしている)に篠を裂いてオタマジャクシの形に取り付けたものであった。篠は皮が付いたままだったので、水切りが良かった。茹で上がって釜の中で踊っているうどんを「しょうぎ」ですくって、水の入ったな大鍋に空け、二度三度ぱんぱんと叩いてきれいに落とす。婆ちゃんの手さばきの良さが思い出される。

しょうぎ

生活の基本 衣と食と住

荒巻鮭のこと。「ねこまたぎ」と言うほど塩がたっぷり振ってあった。魚の身だけでなく、腹の中にある粗塩(あらしお:精製していない塩)が調味料として重宝された。お歳暮には縄に吊された鮭が贈られたが、鮭の数がその家の勢いであり、北側の軒下に誇らしげに下げてあった。冬場の弁当は鮭の連続であった。今では新鮮な鮭が「サーモン」という名で、寿司にもなっているいる。それでも、子どもの頃からの塩鮭が一番美味しい。

しょーびき

塩引き
生活の基本 衣と食と住

方言ではないが、ほぼ死語になった言葉。戸締まりをする時、斜めにさし渡したつっかい棒のことである。本気に入ろうとすれば外されてしまうが、多くの家では心張り棒であった。夜間は「心張り棒」を斜交いに掛け渡したが、日中外出するときに外からは施錠が出来ない。戸締まりについては関心がなかった。

しんばりぼう

心張り棒
生活の基本 衣と食と住

芋洗い棒。サトイモは表面がでこぼこで、手で洗うと痒くなることがある。そこで、松の枝が輪状にバランス良くなっているものを切りそろえ、1メートルほどの長さの上の方には2本の柄を付けて、攪拌しやすくして、桶に入れたイモをかき混ぜる。何度か水を取り替えれば、黒い皮はこそげ落ちる。松の木の特長を生かした先人の知恵である。今は古くなった洗濯機で洗い流すようになり、「じゃっかじぼう」が不要となった。

じゃっかじぼう

生活の基本 衣と食と住

戦後間もない小学校入学する頃は、履き物は藁草履であった。履きやすく柔らかくなった頃に破れてしまうので、よーわり(夜なべ)仕事の草履編みは親たちの大事な作業であった。その後、ゴムの短靴が短時間で普及し、やがてズック靴が普及し、戦中生まれのものが「じょうり」の最後の世代となった。

じょうり

ぞうり
生活の基本 衣と食と住

食べ物が腐敗して食べられないこと。古くから使われていた言葉で、方言ではない。ただ今では共通語としてはほとんど用いられていない。冷蔵庫のない時代、夏は食べ物が饐えてしまって、食えるかどうかは嗅覚で判断した。炊き置いた御飯を食べるときにまず臭いをかいだ。「すえくせ(饐え臭い)」かどうかを感じ取り、食える食えないの判断をした。何より自分の感覚を第一とした。「もったいないから」と、饐えない内に無理に食べさせられることがあった。今は、業者も消費者も賞味期限を厳守し、期限が切れれば食べられる物まで捨ててしまう。「すえくせ」かどうか、感覚を大事にしたい。

すえる

饐える
生活の基本 衣と食と住

生寿司は学生になって食べたのが初めてであった。高校生で下宿していたから寿司屋があるのは知っていたが入ったことはない。八溝で刺身を食べる機会は、葬式の精進上げの酢蛸だけであった。子どもの頃の寿司は、酢飯を油揚げに入れた稲荷寿司か、紅色のおぼろ(そぼろのこと)と干瓢が入っている海苔巻きであった。それでも運動会などの行事がある時の寿司は特別な御馳走であった。今、生寿司に異常に関心があるのは、子どもの頃の反動であろう。

すし

寿司
生活の基本 衣と食と住

酸っぱいこと。「すっかんぼ(スイバ」は「すっけー」ことからの命名であろう。梅干しの酸っぱいとは違った味である。たくわん(沢庵)が古くなると「すっけ」くなって、子どものは受け入れられない味であった。年寄りは入れ歯に注意しながら、口の中を移動させながら食べていた。今は、食味としての「すっけー」は少なくなっている。

すっけー

生活の基本 衣と食と住

背戸は屋敷の裏の防風林や竹藪の場所。童謡にも、鳴かなくなったカナリアは「お背戸」に捨てるとある。表の出入り口に対して、通用口のことで、北側にあるとは限らない。木小屋に囲炉裏の薪を取りに行ったり、台所ゴミを捨てに行ったりするのは西側にある「瀬戸口」であった。家の作りによっては東側に「せどっくち」がある家もある。

せどっくち

背戸口
生活の基本 衣と食と住

山からわき出る水を「とよ(樋)」で引いて池に水を落とす。池のことを「いけんぼ」というが、泉水はやや違う。真ん中に島をしつらえたりして、庭園のような趣をしているものをいう。我が家でも「せんすい」と言っていて、大きな鯉が泳いでいた。周囲に大きな石を据え、単なる「いけんぼ」ではなかった。小扇状地の扇端に立地したことが泉水を可能にしたのであろう。空き家になった泉水の鯉は足音がすると一斉に寄って来て餌をねだる。

せんすい

泉水
生活の基本 衣と食と住

煎餅屋が使っているものより柄の長い煎餅焼き器があった。把っ手が長いのは囲炉裏の火で焼いたことからで、村の鍛冶屋の特製であろう。ハサミの先の皿状のものの表面にはでこぼこがあったが、焼き上がると直ぐに剥がせる工夫であった。他におやつらしいものがない時代だたから、甘みのある焼け立ての熱々の煎餅は極上の味であった。古いものは不要とばかり一気に捨てた時代があり、煎餅焼きも見つからない。

せんべ

煎餅
生活の基本 衣と食と住

家の中にある上便所(うわべんじょ)は年寄り夫婦だけが使うもので、それ以外は者は庭の隅にある「おんこば」を使った。糞尿は肥料として重要であったから、汲み取り作業の効率の良い場所にあった。その後、外便所には風で回る臭気除去のためのファンが付き、下から押すと水が出る手洗いもぶら下がった。しかし電灯はなく、雨の夜は外に出るのが嫌で、そっと雨戸の隙間から思い切って腰を前に出して、敷居を濡らさないように、しかも音がしないよう注意しながら縁側で用を足した。梅雨時には軒下に青のろ(こけ)が生えた。今でも腰に手を当てて小用を足すのは子どものころからの習慣で、多くの人が居る所でもつい腰に手を当て用を足していて、気づいて慌てて前に手を移動させる。

そとべんじょ

外便所
生活の基本 衣と食と住

カマドで火を焚いた際に、炉の下に落ちる熾(おき)が炭化したもの。炭を買うともったいないので、焚き落としを十能で取り出し、消し壷に入れて酸素を断ち、炭を作った。これが「焚き落とし」である。炭窯で作った本格的な炭に比べて火力も弱いし、すぐに燃え尽きてしまう。しかし、毎日の生活で無尽蔵とも言える「焚き落とし」は生活に欠かせない物だった。細かく砕けたのが「炭っちゃり」である。

たきおとし

焚き落とし
生活の基本 衣と食と住

布や糸がこんがらかって1か所に溜まってしまう状態。蛇が「とぐろを巻く」ことと同じ語源か。お針箱の木綿糸を釣り糸代わりにするため、無理に引っ張ると「たぐまって」しまって、後で使う母親は大弱りである。ズボンを強引にはこうとすると、下着の股引がずり上がり、膝の辺りに「たぐまって」しまって、もう一度はき直さなくてはならない。袖などは、少し「たぐまって」いても平気であった。

たぐまる

生活の基本 衣と食と住

風呂水を交換しないで沸かし直すこと。井戸から手桶で水を汲み、「せーふろ(据え風呂)」を焚くのは子供の仕事であった。井戸から運ぶのに疲れて、上の垢だかを取り除いて補充して二日連続の「たてっかえし」をすることもあった。風呂炊きしながら、当時の子供であればだれでも聞いていたラジオ番組の赤胴鈴之助を聞くことが楽しみであった。今は全自動となり優しい女性の声で「お風呂が沸きました」と教えてくれる。ただ、小人数(こにんずう)の我が家ではもったいないから「たてっかいし」にしている。

たてっかいし

立てっ返し
生活の基本 衣と食と住

「たてる」は戸を立てることにも使うが、風呂を沸かすことも言う。この用例は、すでにポルトガルの宣教師によって江戸開府以前に翻訳された『日葡(にっぽ)辞書』にも見え、京都を中心にして使われていた言葉であるという。ポンプが入るまでは井戸から両手にて手桶を提げて何度も往復する風呂汲みは子供の仕事としては重労働であった。ついつい昨日の湯を汲み替えず、不足分だけ足して沸かし直す「タテッカエシ(立てっ返し)」をすることもあった。やがてポンプが導入され、井戸から風呂場までホースで繋がり、水汲みの労力はなくなった。風呂を「立てる」のは小学生の仕事であったから、火の扱いは上手になった。

たてる

立てる
生活の基本 衣と食と住

白い太白は葬式の引き物であったり、親戚を訪問する時の手土産にもなった。それだけに高級感があって滅多にお目にかかれなかった。代わりに玉砂糖が使われ、名前のとおり塊があり、お菓子代わりになった。砂糖と言えば「たまさと」であった。太白をてっぺら(手の平)にもらうとベタベタになって指の間にも入ってしまうが、玉砂糖は塊のままなので、つまんで食べられた。

たまさと

玉砂糖
生活の基本 衣と食と住

長靴に対しての言葉だが、今は短靴が当たり前なので死語となってしまった。昭和20年代の半ばになり、今まで万年草履であったものが、くるぶしまでのゴム製の短靴が出回ってきた。靴下を履かないから、夏はベタベタで靴の中で足がふやけてしまい、冬は冷たくて、足指を絶えず動かして温めていた。長靴が出回ると、天気や季節に関わりなく履き通しであった。夏は半分に折り曲げて暑さをしのいだ。長靴のくるぶし辺りが破けると、上部を切り取って短靴にし、さらにダメになるとはかかとを切ってスリッパにもした。決してすぐに捨ててしまうことはなかった。その後に布製のズックが登場した。

たんぐつ

短靴
生活の基本 衣と食と住

大黒柱の太さは農家のステータスであった。朝起きる、一家の大黒柱になる長男が雑巾で拭き上げた。自分の背丈までしか磨けなかったので、それより上はすすで真っ黒である。1尺5寸のケヤキの大黒柱は、何代も磨き込まれて、今も美しく光ってるが、大黒柱になるはずの長男は家を出て久しい。時々管理に帰る時るだけで、とうとう一家の大黒柱にはなれないままだった。

だいこくばしら

大黒柱
生活の基本 衣と食と住

下ろし金でなく、益子焼きの陶器製を使っていたから、今の大根おろしとは趣が違う。細かく切れないので、水っぽく、ざらざら感あった。文字どおり「大根摺り」であった。子どもの頃からの習慣で、何にでも「だいこずり」を加える。中でもおろし納豆は格別である。

だいごずり

大根摺り
生活の基本 衣と食と住

収穫物を一時保管したり、屋内の作業をする母屋の土間のこと。今言う炊事場の「台所」ではない。一般に木戸口を入って直ぐのところで、板の間や小縁に接する土間である。「よーわり(夜なべ)」もここでする。馬屋にも接し、農家にとっては大切な場所である。毎朝、水を打って、箒草を束ねたもので、丁寧に掃き清めた。力を入れ過ぎると、表面の土が削れてしまう。家屋の構造や呼称は地域によって大きく違う。炊事場の「流し」は、竃(かまど)の隣の北の端にあり、土間の「台所」の一部である。

だいどこ

台所
生活の基本 衣と食と住

日常的には「おんこば」であったが、少し改まった時には「ちょうずば」と言った。便所は時代とともに何度も呼称が変化してきた。古くは「かわや」と言い、川の上に造った小屋のことである。さらに、「御不浄(ごふじょ)」といったり「憚り(はばかり)」と言ったり、禅寺では「東司(とうす)」と呼ぶなど、大小便が直接イメージされない呼び方となり、絶えず新しい名前に変わっていった。
「ちょうず」は手水のことで、元もと神社仏閣の手を洗う水のことで、手を洗うことから厠となり、便所そのものを指すようになった。人糞として畑に施すので、汲み取りに便利なように、便壺に二枚の板が差し渡してあるだけだった。しゃれて「日本橋またがり町」と言っていた。我々世代が「手水場」の最後の世代で、その後はお手洗いと言い、今は学校でも「トイレの時間にします」と言っている。これからどんなふうに変わるのであろうか。

ちょーずば

手水場
生活の基本 衣と食と住

携帯して鼻紙にする物は、上品に「ちりし」とも言った。本来の和紙で作られたちり紙でなく、低質な再生紙であった。ちり紙が普及して便所紙や鼻紙としても用いられた。婆ちゃんはちり紙の半分で鼻をかんで、二つ折りにして懐に入れて、半分でもう一度鼻をかんだ。それを見て育ったから、テッシュで鼻をかんでも1度で捨てることはない。端の方で鼻をかみ、ポケットに入れて、何度か使って団子状態になって捨てることが習慣となっている。ポケットに入れた状態で洗濯機に入れて怒られることも稀でない。

ちりがみ

チリ紙
生活の基本 衣と食と住

杖のこと。子どもの頃には腰の曲がった年寄りが多かった。中には鋭角になるほどの頭部が前になっていた年寄りもいた。石が多く、しかも傾斜地の畑仕事のせいであったろう。今はポールといって、長さを調整できる高価な物もあるが、当時の「つえんぼ」は屋敷に生えている「竹んぼ」であった。

つえんぼ

杖棒
生活の基本 衣と食と住

衣服が破けたり薄切れしたところに布を当てて補強すること。継ぎ当ては標準語であるが、八溝では「つぎ」と言っていた。戦後のインフレ時代には給料が上がらないのに物価が急激に上がり、兼業農家の教員の家庭でも厳しい家計のやりくりであった。子ども服は生地そのものも丈夫でないうえに、人一倍行動が激しかったのでかぎ裂きも多く、ズボンは継ぎ当てが1か所だけでなかった。冬の足袋も「継ぎ」だらけだった。周囲の誰もが同じであったから、特に引け目を感じることはなかった。

つぎ

継ぎ
生活の基本 衣と食と住

天ぷらと同じ意味。今でもそば屋のメニューに「付け揚げそば」と書いてある所がある。野菜に小麦粉の衣を付けるので「付け揚げ」となる。そば屋の天ぷら蕎麦にはエビが入っているが、八溝の「付け揚げ」には魚介は含まれない。旬の野菜の揚げ物である。

つけあげ

付け揚げ
生活の基本 衣と食と住

広く標準語として使われていた。ヒノキを薄く削った経木の先に硫黄が付けてあり、火種の熾(おき)に触れると発火した。虎の絵がかかれていた10センチ四方ほどの大箱のマッチはあったが、日頃はあまり使うことはなかった。家の中に種火があり、夜になると灰を被せておいて、朝になれば灰を除けて火吹竹で火を起こし、燃えやすい杉の葉などで火をふったけ、「つけぎ」で火を分けた。「つけぎ」もマッチも貴重品であった。物の返礼に使ったことから、「おつけぎ」の言葉だけは残ったが、「つけぎ」の意味が分からなくなった。

つけぎ

付木
生活の基本 衣と食と住

鍋をカマドに掛けることで、車が追突するのではない。「突き」は、さまざまな場面で使われる接頭語で、意味を強める。10人家族の汁を煮る大鍋であったから、重くて大変であった。ただ、掛けるのでなく「つっかける」がふさわしい言葉である。

つっかける

突っ掛ける
生活の基本 衣と食と住

風呂やかまどで、燃えさしの薪が落ちないよう中に押し入れたり、新たに燃し木をくべていくことを言う。「つん」は接頭語で意味を強める。「までる」は整理する意味。ここでは、新たな薪を補充することをいう。 五右衛門風呂は「つんまで」なくともいいが、桶に釜が付いている「ひょっとこ風呂」は焚き口が小さいので絶えず「つんまで」ていないと燃し木が落ちてしまう。太い薪の間に杉の小枝を入れながら効率よく火を燃すのは技術が必要であった。後々キャンプなどで大いに役立った。

つんまでる

生活の基本 衣と食と住

標準語は「てっこう」。「てっこ」は農作業や山仕事にとって必需品である。手の甲を保護したり、袖が汚れたり痛んだりすることを予防し、安全でしかも作業効率を良くするために誰もが着用していた。手っ甲は夜なべ仕事での手作りで、嫁様は赤みがかかった色が付いたもので、若い人は色が付いたもの、年寄りは紺の地味な色であった。

てっこ

手っ甲
生活の基本 衣と食と住

「てぬぐい」でなく「てのごい」と言った。今はタオルに代わったが、商店などの新年の引き物として使われた。安くて軽くて、しかも名入りであるから、企業などには打って付けである。昭和40年頃までは、まだタオルは一般的でなく、記念行事や新築祝いなども手拭いであった。風呂に入るにも手拭いであり、作業後の手ふきや顔吹きも手拭いであった。ハンカチを持つ習慣はなかったが、必要な時は、手拭いを半分に切って使った。今はお風呂もタオルだし湯上がりもタオルを使う。しかし、手拭いは非常時の包帯にもなり、三角巾の代替にもなる。登山帰りに入浴する時、手拭いで済ますのは私だけである。

てのごい

手拭い
生活の基本 衣と食と住

「電気柱」の転。今は電柱と言うが、広くは「電信柱」と言われていたから「電信柱」が「でんきんばしら」になったことも考えられる。ただ、田舎の生活は電信とは無縁であったし、電気だけのものであったから、「電気柱」が妥当だろう。大正から昭和にかけて、電気の普及により八溝杉が広く使用され、特需の時代があったという。電柱に塗られていた防腐剤は新しい文化の臭いであった。今はすべてコン柱(コンクリート製の電柱」になり、八溝の杉は使われない。

でんきんばしら

電気柱
生活の基本 衣と食と住

戸外のこと。「天気がいいがら、家ん中ばっかりでなぐ、外端で遊べ」と言われる。寒い時は囲炉裏っ端でマンガなどをゴロゴロしながら読んでいると「子どもは風の子」とばあちゃんにおっ飛ばされる。

とは

外端
生活の基本 衣と食と住

戸外への出入り口が「外端っ口」である。家の中に馬屋があったから、馬も出入りするので、正面には幅が1間ほどの大戸を開け閉めをした。戸車でなく敷居を滑らすので、子どもではなかなか開閉が出来なかった。普段家族が出入りする時は大戸の中にはめ込まれていた半間(90センチ)の小さな潜り戸を使った。「外端っ口」は家の出入り口だなくて、広く物事の端緒の意味でも使い、「まだまだ外端っ口だよ」と言えば、仕事が終わるのはまだまだ先のことである。

とばっくち

外端っ口
生活の基本 衣と食と住

我が家は、小さな扇状地の扇端にあったので、湧き水が出て、飲み水は孟宗竹の節を抜いた「とよ」で引いていた。水はそのまま泉水に流れ落ちた。泉水では釜を洗い鍋を洗った。釜に付いた残飯は鯉の餌になった。雨が降っても濁ることはなかった。「とよ」が腐ると取り替える手間が必要であったが、今は塩ビ管を伏せてあるので交換する手間も要らず、相変わらず音を立てながら流れている。よく考えると一番恵まれていたのである。八溝の名水として多くの人が汲みに来る水と同じ水系の水を今も飲める。

とよ

生活の基本 衣と食と住

一度炊いた御飯をお粥状にしたことに由来する。「とろまし」の語源は、食べ物がとろとろになる「とろむ」であろう。風邪を引くなど体調が悪くなると「とろまし」を作ってもらった。一人のためにわざわざお粥を焚くのではなく、十分に水に漬けた御飯をゆっくり煮直したものをいう。表面には薄い糊の皮膜がかかっていて、砂糖を加えたネギ味噌で食べると格別であった。

とろまし

生活の基本 衣と食と住

家の中にある障子や襖は「開け」たり「閉め」たりしたのに、雨戸は「立てる」と言った。夕方になると「とんぼ立てろ」とせかされた。朝には10枚ほどになる雨戸を戸袋に収納するために何度も往復することになる。1枚1枚丁寧に入れないと最後の1枚が入らなくなってしまう。雨戸の開け閉めは子供の大事な仕事であった。 「とんぼ」は戸臍(とほぞ)の転訛で、平家物語にも「とぼそ」と出てくる。古くは戸は上げ下ろしするものもあり、さらには商家などでは取り外して間口が広く使えるようにした。「とんぼを立てる」のは、雨戸を付けたり外したりした古い時代の名残である。今はレールだが、子どもの頃の敷居には薄い竹が敷かれていた。戸車がなかったから、持ち上げるようにして戸を引いた。

と(ん)ぼたてる

戸臍立てる
生活の基本 衣と食と住

「地べた」に接頭語が付いて転訛したものであろう。ムシロやゴザなどを敷かない地面そのものを言う。地面に直接座っていると「どじっぺらに座って、ズボン汚れっちゃべ(地べたに座ってズボンが汚れてしまうだろ)」と叱られた。今も若者たちは「どじっぺら」にすぐ座る。しかし、アスファルトだから、汚れることはない。なお、「地べた」は土地そのものを指し、「建物を地べたごと売った」という言い方をする。この時は「どじっぺら」とは言わない。

どじっぺら

ど地っぺら
生活の基本 衣と食と住

土間にあった炊事場。畳半畳ほどの大きさの板製の流し台は、今の調理台などとはほど遠い。鍋や釜、さらには野菜など、水をたくさん使うものは井戸端で洗ったから、流しでは水瓶(みずがめ)に貯めていた水を柄杓で汲んで食器を洗う程度であった。八溝の農家では土間を台所と言って、そこに流しがあった。昭和30年代になって、新生活運動が起きて、ポンプで流しまで水が来るようになり、水汲みの必要がなくなり、流しの隣に調理台がついて、井戸端にまで行く必要なくなった。食器も箱膳に片付けるのでなく、毎日流しに持って行くようになった。

ながし

流し
生活の基本 衣と食と住

「とんがらし」は唐辛子の転訛。今は七味というが、その言葉はなかった。赤唐辛子に山椒(さんしょ)の実や胡麻、干したミカン、青のりなどが入っていた。福神漬けも7種類だが、実際に7種類が入っていないものもある。「七色」は多くのという意味であろう。我が家の「七色とんがらし」はすべて婆ちゃんの手作りであった。

なないろとんがらし

七色唐辛子
生活の基本 衣と食と住

竃(かまど)で煮炊きした釜や鍋をを板の間に持ってきて安定させるための藁の輪状の敷物。板の間が汚れないためにも、なくてはならない生活用具であった。新生活運動による台所改善が行われ、昭和30年代半ばまでは鍋敷きの必要がなくなった。

なべしき

鍋敷き
生活の基本 衣と食と住

学校でのグランド均し棒はトンボと言っている。形が昆虫のトンボに似ているからであろう。農家では「たーかき(田搔き)」が終わると凹凸がないように、木製の「均し棒」で平にする。田植え前の最後の仕事である。今の「均し棒」は軽合金でできている。圃場整備が終わり、2反歩以上の大きさになり、トラクターの機能が優れ、均し棒必要なくなった来た。

ならしぼー

均し棒
生活の基本 衣と食と住

1日2食のこと。「食:じき」は食べ物の回数を数える単位である。もともと日本人は2食の生活がベースで、中間に「小時飯」を食べた。今の「にじき」は、昼食抜きのことを言うことが多い。食を「じき」というのは、「断食」などに使う古い言葉であるが、今は聞かれない。自分では、年を取ってきたので2食で十分であると思っているが、なかなか実行出来ないで、カロリー摂取がオーバーになっている。

にじき

二食
生活の基本 衣と食と住

「煮立つ」の転。「niitatu」と連母音であるから、母音1つが欠落し、長音化、さらに濁音となったもの。わらべ歌では「あぶく立った煮え立った」とある。竃に掛けた鍔釜(つばがま)で御飯を炊く時には、「にーだった」頃合を測り、火の調整をする。薪を掻き出して余熱でもってふっくらと仕上げをする。4年生の頃からは飯炊きの仕事が当番であった。登山やキャンプ指導でどれほど役立ったことか。

にーだつ

煮立つ
生活の基本 衣と食と住

衣服に穴が開いた時に、当て布をしないで、糸でかがって穴をふさぐこと。子どもの頃は、家族に女手がたくさんあったので、見よう見まねで足袋でも服でもぬっつぼめることが上手になった。一時しのぎの取り繕うという「弥縫(びほう)」も上手であった。

ぬっつぼめる

縫いつぼめる
生活の基本 衣と食と住

子どもなど人を寝せることではない。納豆を発酵させることである。秋から冬になると、田の畔(くろ)で出来た「くろまめ(大豆)」を茹でて、藁のつとっこに入れ、土の中に「寝かせる」と、藁に付着した納豆菌が自然に発酵して、粘りの強い糸引き納豆が出来た。工場で人工的の納豆菌まぶしてつくる物とは違い、糸引きは悪いが、大豆と藁の臭いが混じったいて格別な味であった。

ねせる

寝せる
生活の基本 衣と食と住

炭で完全に炭化していないもの。コタツに入れると炭から煙が出ることがある。炭焼きさんから特別に不良品として安く買ったものであろう。語源は分からない。コタツに入っていた猫も、煙で思わず飛び出してくる。

ねぼい

生活の基本 衣と食と住

子守り用の綿入れ半纏。兄弟でも下の方になると襟が涎(よだれ)でぺかぺかになってしまっている。冬の商工祭には呉服屋の前には綿入れ半纏がメーンで並んでいて、その中には「ねんねこ半纏」もあった。それだけに多くの人に利用されていたのであろう。我が家では一人ひとりの半纏も「ねんねこ半纏」も婆ちゃんの手作りであった。

ねんねこばんてん

ねんねこ半纏
生活の基本 衣と食と住

「のが」は、稲などの先にある細くて長い「芒(のぎ)」が転訛したもの。「ぽい」は、大人っぽいなどのように、何となくそれらしく感じる状態をいう。背中や首筋に入った芒はちくちくして痛痒い。藁ぼっちで遊んでいる時にも「のがっぽく」なることがあった。今はキャビン付きのコンバインで稲刈りをしているから「のがっぽぐ」なることはないであろう。

のがっぽい

芒っぽい
生活の基本 衣と食と住

伸すは広く標準語として使われている。気に入らない相手を「伸す」こともあるが、当地方で「伸す」と言えば、団塊の世代までは「煙草伸し」がすぐに思い起こされる。秋から冬に掛けての囲炉裏っ端での夜割りは、婆さんが乾いたタバコの葉に口で霧を吹きかけ、子供が葉先を伸しながら押さえることを繰り返した。タバコ伸しをすると指の指紋が消えてしまうほどであった。たばこ伸しをしながら年寄りの語る昔話を聞くのも楽しみであった。煙草伸しが終われば、間もなく納付の日となり、お土産が待ち遠しかった。

のす

伸す・熨す
生活の基本 衣と食と住

刈り取り後の藁を円錐形に重ねたもの。藁ぼっちとも言い、田んぼにあることから「ののぼっち」である。「ののぼっち」が並んでいると北風を防いでくれるから、子どもたちの絶好の遊び場であった。今はコンバインで細かく切ってしまうから、「ののぼっち」を見ることがなくなった。

ののぼっち

生活の基本 衣と食と住

敷物を「伸べる」などと古くから使われている言葉で、源氏物語や平家物語にも出てくる。古典的な意味を継承して、今でも「布団を伸べる」と使う。お風呂が熱いので水で「のべる」とも使い、そばつゆの味が濃すぎる時はお湯で「のべて」薄くする。時間を延長するという意味では使わなかった。今では風呂は自動的に温度調整するし、そばつゆも「薄める」と言い、やがて「のべる」は使われなくなるであろう。

のべる

伸べる・延べる
生活の基本 衣と食と住

標準語である。思慮のない人のこと。文字どおり脳が足りないのである。しばしば、「脳足りんなんだがら」と叱られたが、あまり身に浸みなかった。八溝の言葉では「でれすけ」の方が多く使われ、こちらが馴染みのある言葉で、叱られれば心に沁みた。

のーたりんる

脳足りん
生活の基本 衣と食と住

風呂を燃やせば、風呂釜の「ひょとこ釜」の中には「灰ぼ」が溜まり、燃えが悪くなる。その都度十能で掻き出さなくはならない。溜まった「灰ぼ」はバケツに入れて、防火のため庭先に作られた大谷石の「灰小屋」に運んだ。「灰ぼ」は土壌の酸性中和のために貴重なものだった。

はいぼ

灰ぼ
生活の基本 衣と食と住

家族が10人という家庭も珍しくない時期に、戸棚からそれぞれの箱膳を持って席に着く。箱膳には飯椀、汁椀の他に箸、皿はせいぜいおてしょ(手塩皿)程度であった。食べ終われば飯椀にお湯を注ぎ、お箸できれいにかき混ぜながら洗い、最後は飲んでまた箱膳に伏せて戸棚にしまう。何日おきにきれいに洗ったのであろうか、固くなった米粒が茶碗の縁にこびりついていた。何百年も変わらぬ生活であったろう。30年代になって「生活改善運動」により、台所や風呂の改善がなされ、箱膳は姿を消し、テーブルが文字どおり食卓となった。

はこぜん

箱膳
生活の基本 衣と食と住

広く「はさがけ」などと言われているが、八溝では「はって掛け」と言っている。刈り取った稲を乾燥させるため、二本の杭を交差させ、竹を指し渡して縛ったもの。一株ずつ刈り取り、指で持ち切れない大きさになると、腰に挟んだ藁でまるき、「はって」に掛けていく。「はって」を作ることを「ハッテ突き」といって、杭をしっかりと突き込まないと大風の時などに倒れて、泥の付いて稲をもう一度掛け直すことになる。脱穀が終われば「はって」で使われた竹や杭は縁の下に保管され、何年も使われた。コンバインを導入するだけの耕地面積のない山間の小さな田んぼでは、バインダーで刈り取ってハッテに稲を掛けている。「はって」に掛けられて「がぼし」された米の方が美味しいと言われている。

はって

生活の基本 衣と食と住

山梨県の名物である「ほうとう」と語源は同じと思われる。「法度」が語源と言われているが、御法度になるような贅沢な食べ物ではない。米が十分穫れない八溝地区では米の代わりに、自家製の味噌に季節の野菜を加え、良く煮込んだ汁に、うどん粉を練ってちぎりながら入れた「はっと」がしばしば食卓に上がった。腹がいっぱいになればいいという夕食であった。美味しいと思って食べたことはない。昨今は観光地に行くと「はっと汁」が売られているが、肉が入るなど子供のころの八溝の「はっと」とは似て非なる物である。

はっと

生活の基本 衣と食と住

口の中でどろどろと溶けてしまう食感のこと。そば粉の質が悪いのか、打ち方が悪いのか、あるいは茹で立てでないからか、そば専門店のそばも歯ぬかりのするものがある。祖母の手伝いで、うどん粉やそば粉を練るために脚で踏んだ。練りをいい加減にすると歯ぬかりするものになってしまう。そばやうどんだけでなく、歯の後ろについてさっぱりしないこと全般に使う。

はぬかり

歯ぬかり
生活の基本 衣と食と住

「くちい」は標準語で満腹の意である。それに腹を加えて「腹っくちー」となる。腹八分目という言葉は知っていたし、「腹も身の内」とも言われたが、いつも十二分に食べないと安心しなかった。今は様々な原因から、食べたいものを制限することで苦労しているが、昔の習慣から「はらくちー」と思うほど食べてしまう。

はらくちー

腹くちー
生活の基本 衣と食と住

空腹を一時しのぐ食べ物。「腹塞ぎ」の転。学校から帰ると「なにがねーげ(何かないの)」と聞けば、婆ちゃんは「はらっぷたぎにかんそいも(乾燥芋)でも食ってろ」と、寒竹笊(ざる)の乾燥芋出してくれた。食い飽きてはいたが、急いで口に押し込みながら遊びに走り出す。

はらっぷたぎ

腹っ塞ぎ
生活の基本 衣と食と住

幅40センチほどの洗い張りをする板。我が家には2枚あった。母の嫁入り道具であった。布地が貴重な時代は、着物をほどいて洗濯をして、板に貼り付けて干して、再び着物に「仕立て直し」をした。膝などの痛みやすい部分は、使用頻度の少ない背中にするなど使い回した。冬の農閑期の仕事であった。

はりいた

張り板
生活の基本 衣と食と住

洗い張りをするための板。農閑期になって、汚れた木綿の着物をほどいて川で洗って糊付けをし、「張り板」に良く伸ばして干す。洗い張りである。布は傷み具合を見ながら、仕立て直しの時に、別な所に移し替える。我が家には2枚の「張り板」が残っているが、母の嫁入り道具であったという。

はりいた

張り板
生活の基本 衣と食と住

針の穴のこと。小さな穴は「めど」や「めどっこ」であった。婆ちゃんが縁側でお針をしていると、時々「針めど通し」をさせられた。針めど通しは目の良い孫の仕事であった。なお、目処と書く「めど」は目標のこと、針穴の「めど」とは違う。

はりめど

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広辞苑には袢衣の字が当てられ、「半纏(はんてん)のこと、袖のないものもある」とある。子供や年寄りは半纏を着ていることが多かったが、半纏は袖があり、丈が長いので農作業には不便であった。仕事をする大人たちは「はんこ」を着ることが多かったが、子供たちも、遊びやすい「はんこ」を着て学校に通った。

はんこ

袢衣
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ぼたもちを作る時に、餅米の粒が半分残っている状態に潰すこと。人を徹底的に痛めつけることではない。米を完全に潰さず、半分ほど粒が残すことからの命名。餅米は収量が少ないことから、ぼた餅などは1年に何度もないことであった。餅米の粘りと餡この甘さが最高の御馳走であった。今でもスーパーで売っているものをしばしば買ってくるが、「半殺し」のものは少ない。

はんごろし

半殺し
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引き上げうどんのことで、一般に釜揚げうどんと言われている。茹でてから水で晒さず、そのまま食べるもの。原料の小麦粉は近くの精米所に頼み、挽き賃は小麦から差し引いた。婆ちゃんは、捏ね鉢の中の小麦粉に水を加え、程良い大きさのうどんの玉にして、厚い和紙を載せ、孫に踏ませるのであった。家族が揃った頃合いを見て、お湯がぐらぐらしている羽釜(鍔付の釜)に入れ、ゆであがるのを待って竹製の「しょうぎ」で引き上げ、けんちん汁に入れて食べた。婆ちゃんが打つうどんは硬い上に幅広であったので、麺類が苦手であったから「けっくけっく」して喉が通らなかった。時には食った振りをしてふて寝をしてしまった。

ひきあげ

引き上げ
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「ひで」は松ヤニの含まれている部分で、全国で使われていることばである。「ぼっこ」は木の根の部分をいい、「ひでぼっこ」は松の根を掘り起こしたものである。戦時中は松根油を精製していたほどだから、油脂分が多く含まれて、灯火代りとなった。30年代までは電力事情が悪く、しばしば停電したので、「ひでぼっこ」の備蓄は欠かせなかった。じじーと音を立て、燃える「ひでぼっこ」の薄暗い灯火で夕ご飯を食べることもしばしばだった。宿題をしないことの言い訳になったから、停電はうれしいこともあった。

ひでぼっこ

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お箸一挟みのことで、「少しだけでも食べてください」と、相手に食べ物を勧める時に使う。「ひとっぱさみでもおわげよ(お箸一挟みのわずかでもお上がりください)」と使う。「お上がり」は「おあがり」でなく、「おわがり」となる。良い言葉だが、今は年寄りだけの言葉になってしまった。

ひとっぱさみ

一挟み
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「ひね」は穀物では昨年収穫したもののこと。ただ、人が「ひねる」という時には、老成している、悪く言えば、活気がないという意味で使う。農家では自家製の味噌や醤油を使っていたが、凶作に備えて、当年のものを使い切ってしまうことはない。2年も3年も前の味噌を使うのが普通である。新しいものに比べて黒みを帯びて、文字どおり熟成したもので、一段とコクがあった。ただ、新味噌のような香りはない。

ひねみそ

ひね味噌
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今は、ゴミを拾う時や、バーベキューの際に炭を挟んで火力の調整をしたりする時に使っている。火挟みは、幅が広いうえに、Uの字になっているから火を挟みやすかった。囲炉裏い置いてある火箸は鍛冶屋が作ったもので、手元の方がリングで繋がっていた。太い薪まで挟んで動かすから、太くて長いものであったが、子どもでは扱いきれなかった。やたらに火箸でを火を弄んでいると、「火箸いじっていると嫁いじりするようになるから(火箸をわすらしていると、嫁をいじるようになるから)」と婆ちゃんに言われた。その危惧は全く当たらなかった。

ひばさみ

火挟み
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勢いよく燃え上がった炎のこと。なかなか燃えないので、囲炉裏の中に杉っ葉を入れると、急に強く燃え出し、1間(約2メートル)ほども火が燃え上がって、灰が板の間一杯に散って真っ白になる。家族に気づかれる前に掃き出しておかなくてはならない。庭先で藁のゴミなどを燃やしている時も、自分ではどうにもならないほども「火ぼえ」が上がることがあった。子どもの頃から火を使うことが多かったから、火の扱いは上手である。

ひぼえ

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ひものこと。クモ:蜘蛛が「くぼ」に転訛することと同じ。さらに、小さいことや細いことに対して、親しみを込める「こ」をつけた。従って長い紐は「ひぼっこ」ではない。靴紐は「ひぼっこ」であり、半纏(はんてん)の前を結ぶのも「ひぼっこ」である。洋服でなかったので、ボタンが少なく、毎日「ひぼっこと」と格闘であったが、きれいな蝶結びが出来なくて、葬式の縦結びになってしまったり、解きにくい「くそ結び」になってしまった。

ひぼっこ

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「はじきいも」ともいう。サトイモの中で、小ぶりで丸いものをいう。煮物にもならないものを皮ごと煮たもので、ぬめりがあって皮がするりとむける。ぬめりがあっても大きいものには使わないことから、皮が1度でむける程度の大きさのものに限ったのであろう。砂糖味噌を着けたり、ゆず味噌でたべると特別の味がした。

ひょろいも

ひょろ芋
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「炭酸饅頭」を作る時の、皮になる小麦の膨張剤で、今はベーキングパウダーと言っている。季節や祝祭日にかかわらず、「おまんじ」が作られた。時々十分攪拌されず、「ふくらしこ」が白いまま固まっていることがあった。ふくらし粉をどの程度の割合で混ぜたかは知らない。

ふくらしこ

膨らし粉
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畳や藁などが湿気って腐ること。空き家にしておくと風通しが悪くなり、日の当たらない裏座の畳がすっかり「蒸け」て波打っている。住む人もないので、「蒸ける」に任せるしかない。餅米が「蒸ける」と同じ語源であろう。

ふける

蒸ける
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火を着けて空気を吹きかけることか。「風呂ふったけろ」と言われれば、囲炉裏から燃えっちゃし(燃えさし)を火箸に挟んで風呂釜に運んで、燃えやすい杉の葉に焚きつける。薪に火が回るように調整し、時には「火吹き竹」で狙いを定めて空気を送り込む。「ふったける」は火ばかりでなく、けしかけることも言い、さらに「ふったかる」となれば、息ぶい(調子が上がる)ことで、「あそこんち(あそこの家)はシイタケ作ってふったかったよ」といえば、シイタケ栽培で家計が上昇したことになる。

ふったける

吹き焚ける
生活の基本 衣と食と住

「ふろしき」が転訛した。鞄(かばん)や便利な袋がない頃は、なんでも「ふるしき」に包んで持ち運びをした。時にやってくる行商さんも大きな「ふるしき」に行李を包んで背に背負って家々を回って歩いた。祝儀の際も引物と御馳走の残りは「ふるしき」に包んで帰った。当時は人絹の薄いものでなく、木綿で染め抜いたものであった。縛り方も種々あり、1升瓶も「ふるしき」に包んで届け物にした。最近は、もったいない運動で「ふるしき」が見直されている。

ふるしき

風呂敷
生活の基本 衣と食と住

秋の大風で稲が倒伏すると、「みんなぶっくり返えっちゃった」という。ブンやブッが語頭に付けば意味が強まる。自然とともにあり、力仕事をする農村ではこの種の接頭語が付く言葉が多い。それだけ一つ一つの動作に力が必要であったし、一方で人知ではどうしようもない自然の猛威にもさらされることも多かった。「ぶっける」も、ただひっくり返るのでなく、強い外圧でひっくり返り、その結果が重大であることを暗示する言葉である。倒伏すればそれだけ余計に手間が掛り、ついつい「よめごと」(世迷い言)が出る。

ぶっくりげーる

生活の基本 衣と食と住

昭和30年代半ばになると、住宅の改善、中でも主婦の労働軽減と衛生を目的に台所と風呂場の改造が進められた。農協から配布される雑誌『家の光』を購読する家も増えてきて、生活改善についての意欲も高まり、「文化風呂」「文化包丁」「文化住宅」など、「文化」の名を冠したものが農家にも普及し出した。「文化」は生活が衛生的で便利になることの意味で使われ、「カルチュア」ではなかった。その中で、風呂の改善はポンプの導入とともに「文化」の先端であった。煙突が付いて、もう煙いことがなくなった。それだけに、風呂の改善は、嫁に来た若い主婦にとって宿願であったろう。我が家でもタイル張りの明るい文化風呂になった。

ぶんかぶろ

文化風呂
生活の基本 衣と食と住

コンニャクの味噌おでん。味噌をべったりと付けるからか。コンニャクの産地であったので、畑から掘り起こした芋を摺り下ろし、重曹であく抜きをして、大きな鍋で茹でて水に曝して大量に作った。刺身コンニャク、野菜との煮付け、カルタほどの大きさに切って竹串に刺して甘い味噌を付けて「べったらこんやく」など、様々な食べ方があった。子どもたちにとって「べったらコンニャク」は美味しいものでなく、むしろ砂糖味の味噌がうれしかった。懐かしい八溝の味である。

べったらこんにゃく

生活の基本 衣と食と住

標準語としても使われる。靴紐が直接足の甲に当たらないようにした舌の形をしたもので、メーカーの名前が入っている部分。英語のtangの和訳。ゴムの短靴からから紐靴になって「べろ」という言葉が急速に広がった。急いで靴を突っ掛けて、かかとを踏んづけ、さらには「べろ」を折り曲げて履くことがしばしばであった。

べろ

生活の基本 衣と食と住

普段の弁当箱より大きいもので、飯やおかずを入れたお鉢のことだが、実際に畔まで持って行ったのは重箱であった。「弁当鉢」という言葉だけが残っていたのであろう。田植えの時のお昼は、三重の重箱に煮染めやお新香を入れて、家族以外の「結い」をしてくれている人と一緒に食べた。ニシンとゼンマイなどのお煮染めは八溝の味そのものである。

べんとばち

弁当鉢
生活の基本 衣と食と住

「ほおかぶり」が転訛したもの。冬になると手拭いで「ほっかぶり」をした。爺ちゃんは「ほっかぶり」をして囲炉裏の側に座っていた。子どもたちも風が吹く日には、「ほっかぶり」をして遊んだ。子どもの世界では、知らない振りをする意味での「ほっかぶり」は使わなかった。

ほっかぶり

頬被り
生活の基本 衣と食と住

広く使われた言葉で、方言ではない。囲炉裏で火を燃やすところの中心部で、真上には鉤吊しが下がっている。マッチは貴重品であったので、火種を切らさないように、夜には「ほど」のおきを集めて薄く灰を掛け、鉄瓶をはずして乗せておく。翌朝には灰を除け、火吹竹で息を吹っかければ枯れた杉っ葉は勢いよく燃え出す。つい半世紀前までは、囲炉裏の「火処」を中心として家族で食事をするのは、ほぼ縄文時代と変わらないような生活であった。

ほど

火処
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鰯を藁で頬を指し抜いて連ねているものをいう。今は串で目を刺し通す目刺が主流であるが、子どもの頃の鰯は、藁でえらを刺し抜いていたので「頬通し」であった。単調になりがちな冬の食卓に魚が上るのは、いくら塩っぱくとも、御馳走であった。節分の日には、頭を大豆の枝に刺して木戸口の柱の割れ目に突っ刺した。子どもの頃は、目刺しといわず、全部「頬通し」であった。囲炉裏の「焼きこ」に乗せておくとすぐに藁に火が着き、連なっていた鰯は一匹ずつバラに離れていく。熱い「頬通し」は麦飯に良く合った。

ほーどし

頬通し
生活の基本 衣と食と住

棒状の固形石鹸。泡立てを良くするために、温かさが残っている風呂の残り湯を使って洗濯をした。棒石鹸は洗濯だけでなく湯手拭によく擦り付けて体も洗った。顔や手を洗う専用の化粧石鹸は、30年代、英語でCOWと書かれ、牛の絵の包装紙に包まれた牛乳石鹸や三日月の花王石鹸などが贈答品の定番になった。化粧石鹸は洗い場に置き忘れると、烏に食べられてしまった。当時の化粧石鹸は今でも箱に入ったまま棚の奥に残っている。洗濯機の普及とともに粉石鹸が普及、棒石鹸は姿を消したかに見えたが、最近は100円店にも並んでいる。メリットは何であろうか。

ぼうせっけん

棒石鹸
生活の基本 衣と食と住

柱などが朽ちること。風雨にさらされたり、シロアリなどに食われて、家の土台が「ぽける」ことがある。木の芯がスカスカになっている状態である。空き家になっているふるさとの家はあちこちが「ぽけて」しまっている。

ぽける

生活の基本 衣と食と住

馬を飼っている昭和30年頃までは道のあちこちに馬糞が落ちていた。馬糞は牛糞と違って乾いていたから汚い感じもしなかった。馬糞には小さいキノコがすぐに生えてきた。「馬糞っきのこ」のことで、どこにでも出るもの、さらに必要以上に人前に顔を出す人の罵りの言葉となった。また、子どもの頃の饅頭と言えば、七月一日の「釜の蓋」に日に作る炭酸饅頭であった。馬糞に似ていたので「まぐそまんじょう」と言った。その他にも祭日には饅頭を蒸かしたが、皮が厚い「厚皮饅頭」であったから、あんこだけ食って皮を捨てることもあった。炭酸がたくさん入っていたので、胸が焼けた。

まぐそまんじゅう

馬糞饅頭
生活の基本 衣と食と住

マッチの棒のことで、特に細い物の代名詞。「まっちぼうみでだ(マッチ棒みたいだ)」となれば、腕や足が極めて細いことを形容する。今でこそ「マッチ棒」みたいな足が好まれるが、戦後10年間は、痩せてて栄養失調と疑われた。マッチ棒は耳掻きにもし、メンタムを傷口に塗り込むときにも使った。子どもの火遊びから火事が起きたこともあり、ある時期から、子どもの手が届かない所にブリキにマッチ入れが各家庭に作られた。

まっちぼう

マッチ棒
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大洋漁業の商標。いくつかの会社があったのであろうが、子どもの頃から親しんでいるのは、〇の中に「は」の「まるは」ソーセージであった。平仮名であったこと、さらにはプロ野球の大洋ホエールズの親会社であることからの親しみもあったのであろう。ヱスビーのカレー粉と魚肉ソーセージ入りのカレーが大家族では一番手軽にできる料理であった。普段からカレーを食べる30年代になると、「箱膳」の御飯茶碗でなく、カレー皿が食卓に並んだ。ところが、高校生になって、下宿屋の町場の肉入りカレーが出た時はショックであった。今までの八溝のカレーの味はなんだったのだろうか。これは、我が家だけの問題だったろうか。今でも、登山には「まるは」のソーセージは欠かさない。

まるは

丸は
生活の基本 衣と食と住

どの家でも夜なべ仕事で藁草履を作っていた。学校に行くのも藁草履であったし、川遊びは土踏まずまでの「足中(あしなか)」が、滑らずしかも水切りがよかったので便利であった。藁草履は雨天の日などは水を吸って重くなるうえ、鼻緒が良く切れた。戦後10年ほどしたころ、ゴム製の「万年草履」が普及してきた。地域によっては「千年履き」とも言うほど、藁草履に比べものにならないほど耐久性があり、汚れても洗えばすぐにきれいになった。ただ、一体成形でなく、鼻緒を穴に通してあったので、次第に穴が大きくなり、外れ易くなってしまう。それでも藁草履から比べれば、文字どおり「万年草履」であった。

まんねんぞうり

万年草履
生活の基本 衣と食と住

「みそべや」でなく「みそびや」であった。味噌を寝かせておく場所。独立の建物でなく、板倉の前に屋根を差し渡した小屋で、塩の保存、味噌樽、醤油の酛(もと)も保管した。「味噌部屋」に行くのは子どもの仕事であった。味噌の中にある野菜の味噌漬けを、手を入れて探し出す時には「めなし(あかぎれ)」が痛かった。味噌部屋には独特な甘い匂いが漂っていた。

みそびや

味噌部屋
生活の基本 衣と食と住

「さし」は途中で止めることを言い、「燃えっちゃし」は「燃えさし」が転訛したもの。特に途中まで燃えて火が消えた薪などをいう。意識して灰の中に入れて「もえっちゃし」にすることもある。半世紀前までは、囲炉裏や風呂釜、竃(かまど)で薪で火を焚いていた。風呂釜では、太い薪と細い薪を上手に組み合わせ、空気の調整をして、家の中に煙が充満しないようにした。火の燃やし方はキャンプ講習会で習った人などとはキャリアが違う。

もえっちゃし

燃えさし
生活の基本 衣と食と住

難しい漢字を当てるが、もともとは戦の時に敵を防ぐ柵をのことであった。そこから垣根の意味になり、生け垣を「生もがり」と言った。川沿いの山里は「唐箕(とうみ)のケツ」と言われ、那須連山から北西風が撚(よ)れるようにして川下から吹き込んでくる。どこの屋敷にも北側に風除けの竹や杉などの「生けもがり」が植えられていた。さらに藁で風除けを作った。それでも立て付けが悪いうえ、煙出しがあったから、冷たい風とともに木の葉も舞い込んできた。1月から2月に掛けては、風が竹などに当たる時の「もがり笛」の高い音を聞きながら、冷たい布団の中で、体温の拡散を防ぐため丸くなって眠気が差すのを待った。春が待ち遠し季節であった。

もがり

虎杖
生活の基本 衣と食と住

「もくたれ」とも。「もくた」は「芥(あくた)もくた」などと使い、ゴミを指す。「もく」がゴミそのものを指し、「たれ」は馬鹿たれなどの蔑視を意味する語か。八溝では「もくたれ」と言えば、粗末な仕事着のことを言った。汚れているうえに、継ぎ当てがしてあって、見た目の良くないものであったからである。特に女性のもんぺのことだと聞いた。

もくたり

生活の基本 衣と食と住

越中ふんどしと違って、前垂れがなく、前後とも紐が通っていて横で縛るもので、土砂を運ぶ畚(もっこ)に似ていたことからの命名。越中ふんどしに比べて安定感もあり、ずれが少なく、農作業などにも適していた。親の世代まではふんどしであったが、我々の世代は白いパンツであった。白のパンツはそのまま運動会のランニングパンツにもなった。

もっこふんどし

生活の基本 衣と食と住

キッコーマンやヤマサを買って使うようになったのは昭和30年代後半であろう。流通基盤が不十分で、液体である醤油の遠距離輸送は困難であった。そのため、どの町にも造り酒屋と醤油醸造所があって、量り売りをしていた。それでも農家では失費を抑えるために味噌も醤油も自家製のものを使っていた。各戸に味噌倉があって、樽が何本か並んでいた。味噌は凶作でも困らないように3年もののひね味噌を順に使った。味噌樽と並んで醤油を作る樽があって「もと」が入っていて、上澄みを必要なだけお椀に汲んで使った。やがて、キッコウマンの瓶の醤油差しが出回り、家庭での定番になった。一方で、家庭で作る独自の味噌や醤油もなくなり、全国一律の味になってしまった。

もと

生活の基本 衣と食と住

作業用の股引で、下着ではない。紺色の木綿地で作られ、作業がしやすいように細身になっていた。ズボンが普及する前には農作業で普通に履いた。女の人も股引であったが、その後、上衣の「山襦袢」の裾を入れるために太めに作ってあった「もんぺ」が普及した。さらに、ズボンとシャッツが普及してきて、20年代末には作業着としての股引は急激に消滅した。今は祭礼の時に着用されるが、村の鎮守の祭りは御輿が軽トラに乗って巡幸するので、股引を履くこともなくなった。

ももひき

股引
生活の基本 衣と食と住

モロコシを収穫した後の茎を束ねて自家製の箒を作っていた。もろこしの穂には油分があったので、座敷の畳みが光ってきれいになった。その後、もろこしを作ることが無くなり、鹿沼辺りから、箒を肩に掛けて行商が回って来た。自家製の丸く束ねたものと違って、きれいな糸で平たく編んだ箒が座敷の柱に提げられた。

もろこしぼうき

唐土箒
生活の基本 衣と食と住

七輪に乗せる四角や三角の網とは違って、囲炉裏の回りに置く、長さ50センチほどある曲線のもの。鍛冶屋で作ったもので、主に餅焼きなどに使った。囲炉裏の火力によって「焼きこ」の位置を移動する。直火で焼いた餅は、砂糖醤油を付けて食べると格別であった。

やきこ

焼きこ
生活の基本 衣と食と住

御飯のお焦げのこと。家族10人分を羽釜で炊くと、どうしても底の部分は焦げが貼り付く。この貼り付いた部分が「焼き付き」である。温かい「焼き付き」に味噌を塗って食べれば、なんのおかずも要らなかった。電気釜は出来不出来はないが、いつも同じ味で没個性である。

やきつき

焼き付き
生活の基本 衣と食と住

本来の襦袢は肌着の意味だが、農作業には腰丈の作業着である山襦袢を着た。明治半ばの生まれで、昭和30年代半ばに亡くなった祖母は終生ズボンははかず、シャツを着ることがなかった。昔ながらの和装のままで、農作業には山襦袢にもんぺ、冬は綿入れ伴天に足袋であった。生地が傷めば洗い張りをし、仕立て直し、さらには継ぎ当てをして長く使った。いよいよダメになれば、中気で寝込んでいる爺ちゃんのおしめになった。

やまじばん

山襦袢
生活の基本 衣と食と住

農作業の支度。山仕事に着るものでなく、「やま」は畑のことで、畑仕事の作業着。戦前までは男女とも股引(ももひき)であったが、私がが子どもの頃は、女性はもんぺ姿であった。農作業がしやすいように、裾は細く、股引は紺色、もんぺは茶の縞模様や絣(かすり)、腰に紐が付いていた。もんぺは上着の着物が入るように股の処がゆったりとしていた。やがて、股引やもんぺから、町場で流行ってきたズボンに変わっていった。

やまっき

山っ着
生活の基本 衣と食と住

お風呂に用いる手拭いで、野良で使う汗拭きとは区別し、お風呂専用であった。家族全体で共有し、湯上がりにも兼用した。タオルが一般化したのは40年代になってからで、「湯上がり」という大判のタオルを修学旅行に持参する生徒が出て来た時には、「湯手拭い」で育ったものとしては驚きであった。登山の帰りの入浴で湯手拭いを使っているのは私一人である。もちろん「湯上がり」も使わない。

ゆてぬぐい

湯手拭い
生活の基本 衣と食と住

下駄や草履で、鼻緒に対して横緒のこと。ただ、八溝では鼻緒を含めて全部を「よこ」と言っていた。本来は、鼻緒は足指の親指と人差し指で挟むものを言い、横は鼻緒から左右に分かれているものである。鼻緒が切れた時には簡単に直せるが、横が切れると草履そのものがダメになる時である。戦後の物資不足の時代とは言え、藁を中心とする自家製の履き物で済ますのは、古代人とあまり変わらないにではないかと思えてしまう。

よこ

生活の基本 衣と食と住

標準語の「分配する」が、御飯や汁を、羽釜や鍋から取り分けて碗に盛るという限定された意味に使われる。「5年生になったんだがら、自分で分けろ」と言われる。「よそる」とも言い、「わける」より上品な響きを持つ言葉であった。

わける

分ける
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「草鞋掛」のことで、地下足袋をいう。「わらじ」が清音化し、「わらち」となった。もとは草鞋を履く時に足を守る足袋のことだが、今はお祭りの時の足袋を指すようになった。さらに元の意味を失い、しかも、直に地面を歩くから「直(じか)足袋」であったものが「地下(ちか)足袋」になった。一般に清音が濁音化するのに「地下足袋」は反対に清音化している。ブリヂストンのルーツである久留米の会社の箱に「地下足袋」と書いてあったから、そのまま「ちかたび」読むようになり、全国に普及した。「地下足袋」の前の呼称の「草鞋掛」を聞き知っている最後の世代であろう。

わらちかけ

草鞋掛
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