冠婚葬祭と人々の繋がり
「集まり」が濁音化したもの。集会のことで、「今夜7時っからあずばりがある」と言い継ぎが回ってくる。人が集まるのも「あずばってくる」と濁った。
あずばり
集まり
冠婚葬祭と人々の繋がり
「あてがい」は方言でなく、元は武将が家臣に対して所領を与えたことも意味し、その証書が宛行状(あてがいじょう)であった。部下の意見を聞かずに決めたことより、一方的に宛行することから生まれた言葉である。今でも、「あてがいぶちで悪いげんと、今日んとこはこれで」と言って、先方の都合を聞かず、こちらで判断して手間賃などを払う。食事についても、相手の好みを聞かず、当家の都合で出す時には「あてがいぶち」でと、形だけ謝りを入れるのが礼儀である。古い時代の雰囲気を感じさせる言葉である。
あて(で)がいぶち
宛行扶持
冠婚葬祭と人々の繋がり
「あの仲間ら」という意味。「て」は体(てい)が縮まったもの。「ら」は等のことで複数を表す。「あんてらはつるんで悪さばーししてるんだから(あの連中は一緒になって悪さばかりしているんだから)」と使う。「こんてら」とも言い、いずれも蔑みの意味が入っている。
あんてら
あの体ら
冠婚葬祭と人々の繋がり
「あに(兄)」の転訛。姉は「あんね」である。間に「ん」が入ることで親しみを感じる。当時の農家には労働力が必要なこともあって、中学校を卒業しても農業の手伝いをして家に残る叔父叔母が多かった。兄姉の「兄んちゃん」「姉ちゃん」とは違った近しい存在の「あんに」や「あんね」は育ちの中で大きな影響があった。有り難いことであった。
あんに:あんね
兄
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家計や個人の体調などの勢いのことをいう。「いきぶいがあがる」とか「いきぶいをふっかいし(吹き返す)た」などと使い、「あそこの家はずいぶん「いきぶい上がってんね」といえば、家政が盛んなことである。村落社会では他人の家の「いきぶい」は殊のほか気になり、常々自分の家と比較していた。
いきぶい
息ぶい
冠婚葬祭と人々の繋がり
子どもの成長を祝う行事。誕生して1年が経つと、一升餅を背負わせて歩かせる。祖母は後々まで一升餅を背負(しょ)って歩いたことをうれしそうに話してくれた。ただ一升餅を背負ったままずっと歩いていると良くないというので、わざと転ばせたという。理由は何であろうか。今では誕生前に歩く子もは珍しくなく、一升餅の行事も少なくなり、餅も名入りなどにしてお菓子屋に発注している。餅が貴重な時代であった。
いっしょうもち
一升餅
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一人前の人として扱われること。そこからさらに、「子どものくせしていっちょうめーの口利いて(子どものくせに一人前の口を利いて)」と、否定的な意味で言われた。実力以上に生意気な口を利くことである。「ちょべちょべ」していることと同じである。
いっちょめー
一丁前
冠婚葬祭と人々の繋がり
一番奥の場所。特に沢筋の奥などの場所を指した。屋号が「いり」という家もあり、回覧板回しも大変な所であった。「いにさわ」と言っていたのは「入沢」のことで、一番奥の沢のことである。「入郷」など八溝の地形にあった地名の「入り」がつく所が多かったが、今はどこも空き家なっている。
いり
入り
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印鑑のこと。「印形付く」と言った。子どもの時期にも大人の世界では印形を押す機会があったのかも知れないが、宅配を含めて時代が進んだ今の方が印鑑を使用する機会が多くなった。家の中に三文判あちこちにある時代ではなかったから、印形は大事な時にだけ使った。すでに印形は死語となった。
いんぎょう
印形
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回覧板はあったが、急ぎの常会の開催などは伝言であった。大人が留守の時に、隣の婆ちゃんが言い継ぎに来て、何度も「だいじか。忘れねでいーつぎすんだぞ(大丈夫か。忘れないで言い継ぎするんだぞ)」と念を押された。家人に伝えることはもちろん、言い継ぎをしなくてはならないので、緊張したものである。隣に行って「今夜7時っから常会があんだと。言い継ぎお願いします」と間違いなく言い継ぎしてほっとしたものである。
いーつぎ
言い継ぎ
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跡取り息子は親戚や近隣の付き合いのため、将棋や囲碁を嗜まなくてはならないので、爺ちゃんが将棋を教えてくれた。縁側の日溜まりで、駒の動かし方の基本からずいぶん仕込まれたが、さっぱり腕が上がらない。爺ちゃんも諦めたのであろう、中学生になる頃には全く縁側将棋をしなくなってしまった。骨董価値のある碁盤と碁石が床の間に置かれているが、今までついに使うことがなかった。自分でも勝負弱さと緻密さに欠けることを自覚しているから、学生間で流行っていた麻雀にも手を出さず、もっぱら体を動かすことに熱中した。そのため、香辛料の入っていない料理のような味気のない人生になってしまった。
えんがわしょうぎ
縁側将棋
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掛け字に「お」が付いたので語末が省略され「おかけじ」となったと思われるが、「掛け軸」の最後が脱落したとも考えられる。床の間には絵や書の掛け軸が飾ってあるが、敬称の付く「おかけじ」は猿田彦様などが描かれ、神事の日に掛けられる軸である。当番の宿が保管し、お庚申様の寄り合いが終われば丁寧に丸めて次の宿に引き継ぐ。神様が宿る大切な掛け軸であった。「掛け字」は、字だけでなく絵画のものまで含むようになった。
おかけじ
お 掛け字

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語頭に敬称「お」を付け、語尾に蔑称になる「め」を付けた。勧進は寺院の寄進のため金品の喜捨を受けるために各地を歩くことで、僧そのものを指すことになった。次第に物乞いの意味となり、乞食を指すようになり、「おかんじん」が「おかんじめ」となった。五木の子守歌にある「おどみゃ(私は)勧進勧進」とあるのも、「良か衆」に対して自分の貧しい身の上を「カンジン」と言った。九州と同様、当地方に残る古い言葉である。
おかんじめ
お勧進め
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竈(かまど)の神様。裸火を使うことから、火防の神にはいつも竈の近くにいてもらわないと困る。火防の神様は、近くは古峰ヶ原神社、さらに秩父の三峰神社、遠くは三州秋葉神社とか京の愛宕神社の神札までお飾りしてあった。愛宕神社は地域の神社として、大事に祀られていた。いつ頃、どのようにして京都の神様が小さな集落に勧請(かんじょう:迎え祀る)されたのであろうか、興味深いことである。
おがまさま
お竈さま

冠婚葬祭と人々の繋がり
来客が来た時に飲食の接待をすること。「お給仕」は、「手盆」でなく、小型の「お給仕盆」を使って勧める。「おぎゅうじ」の中には「お代り」を勧める心遣 いも必要で、「一杯飯ちゃあんめよ。もっとおあがんなんしょよ(一杯飯ということはないよ。もっとお上がりくださいよ)」という。一杯飯は死人の食べ物だから、2杯食べるよう勧める。
おぎゅうじ
お給仕
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60日に1度回ってくる庚申(かのえさる)日の夜、持ち回りの宿(やど)に、男たちが集まって飲食をする日。床の間には猿田彦のおかけじ(掛け軸)を掛ける。年6回あるが、本来の庚申信仰とは違って、組内の親睦と農事の休暇の意味あいがあった。中学生になると、父親が宿直で出られない時には「名代」として酒宴の席に出て、酒を勧められることもあった。酒のキャリアは相当なものである。その後、葉煙草が作られなくなり、家の改築が進み、組内全員が詰まる座敷もなくなってしまった。補助金で地域公民館が作られ、各戸持ち回りから公民館での集まりになった。やがて、年1回の「仕舞い庚申」だけとなり、それも今はなくなってしまった。猿田彦の掛け軸はどこに行ってしまったのか。
おごしんさま
御庚申様

冠婚葬祭と人々の繋がり
お互いに対等にして、お返しなどを省略すること。「俺家(おれげ)方でも爺ちゃんの快気祝いやんなくちゃなんえげど(やらなくちゃならないけれど)、お互いに押し合いにすっぺ」ということで、どちらも快気祝いのやり取りはしないことになる。株の市場の押し合いと同じで、相場が動かないことと同類。良い言葉である
おしあい
押し合い
冠婚葬祭と人々の繋がり
「おじいちゃん」が転訛したもの。さらに「おじんつぁん」より「おじんつぁま」とすれば、丁寧な表現になる。自分の家族の祖父には「じいちゃん」と言って、よその家の爺ちゃんに対して「お」を付けて使った。「おじんつぁん」に対して「おばんつぁん」もいる。
おじんつぁん
冠婚葬祭と人々の繋がり
プラスとマイナスがちょうど合致すること。「少しぐれおっつげっちゃべ(少しくらいは合わせてしまおう)」とつじつま合わせをするが、あとでかえって「追っかなくなる」ことも多かった。人に追いつくこととは別な単語であろう。
おっつぐ
追いつく
冠婚葬祭と人々の繋がり
向こうに追い出すこと。「野良猫おっ飛ばせ」と言われ、戸外に追い出す。ただ追い出すのでなく、強引に追い出すことに使う。子どもも家中(いんなか)でコタツに当たっていると、「外で遊べ」とおっ飛ばされた。子どもたちの関心では、先生の異動で「あの先生はおっ飛ばされて別な学校に行ったんだと」と話題にする。
おっとばす
おっ飛ばす
冠婚葬祭と人々の繋がり
開くこと全般に使うが、多くは、秘密をしまっておけいないで、口外する時に使った。、いい場面では使わず、「あんて(あの人)は口が軽いんですぐにおっぴらかしちゃうんだ」などと言った。狭い地域であったため、「おっぴらかす」人がいるとすぐに話が広まった。同じような言葉に「おっぴろげる」があるが、こちらは物を広げることに多く使う。
おっぴらかす
おっ開かす
冠婚葬祭と人々の繋がり
思い切って押すこと。押し圧す対象はさまざまで、物にも人にも使う。「かまごどねがらおっぺしこんじゃべ」(構わないから押し込んでしまおう)と無理に入れると、後で収拾がつかなくなる。強引な性格であったから「押っペ仕込む」ことが多かった。
おっぺす(おっぺしこむ)
押っ圧す
冠婚葬祭と人々の繋がり
身を寄せ合うこと。寒いから仲間と「おつかって」日向ぼっこをした。姉弟が多かったので、夜も一人でなく「おつかって」寝ていた。今は一人で寝ているので「おつかって」くれる人がいない。支えをする「おっかる」は「交う」のあて字を充てて意味が違う。
おつかる
冠婚葬祭と人々の繋がり
出産をすること。産婦には「おとなしさま」と敬称を付ける。初産の時には実家に帰えってお産をすることもあった。村に一人だけの佐藤産婆さんが、自転車に乗ってやってきて取り上げた。裏座が産室であった。弟が生まれる度に、母親が遠くなったような気がした。
おとなし
冠婚葬祭と人々の繋がり
農事を休んで、集落の人が飲食な どを共にする日のこと。「日待ち」は標準語である。町の商店からもらう暦には、大安や仏滅だけでなく、不成就日だから種を蒔かないとか、反対に一粒万倍日といって種蒔きをするのに好都合などと、様々な情報が記載されていた。「おひまじ」の回り番の宿に、集落全部があずばって(集まって)会食をした。中でも男衆の酒席は、普段は大人しい人が酔いの勢いで、畑の地境(じざかい)の不満を吐き出して言い争いになることも一再でなかった。その都度そこの母ちゃんが「ほら父ちゃん早く帰っぺ」と言っても、帰るっちゃね、連れ帰すのに一苦労していた。今はみんな勤め人になり、さらには年寄り世帯となって、寄り合いもなく、時に地区の集会場で常会をする程度になってしまった。
おひまじ
お日待ち
冠婚葬祭と人々の繋がり
産後21日間は、出産で血を流したことから、忌まれるものとして、産婦は産室にこもることになり、外便所に行く時も太陽に当たらないように顔を笠で隠しながら産屋を出た。21日経てば、汚れた蒲団を上げる床上げをして、新しい蒲団にかえる。産婦が家事などの仕事に復帰することになる。実家に帰ってお産をした産婦も婚家に帰る。本来は子どもの無事の誕生と産婦の肥立ちに配慮して、お祝いの日であった。農繁期の出産は、産婦の健康よりも家事や農事が優先され、ゆっくりと「産休」をとっていることは出来なかった。
おびあぎ(げ)
帯揚げ 産屋空け
冠婚葬祭と人々の繋がり
家庭の主、戸主のことで、現場監督や大工の棟梁ではない。親しい仲では「おやがたいるげ(おやじさんはいるか)」と訪問する。「たいしょう」とも言う。「大将」も一家の中心である。今でも近所付き合いの中で使われている。
おやがた
親方かお館
冠婚葬祭と人々の繋がり
昭和20年代から30年代にかけての日本人の平均寿命は60歳に到達していなかった。また、父親が戦死した家もあった。結婚の年齢も低かったうえに子供も多く、父親は下の方の子供が成人する前に亡くなることも多かった。親が亡くなれば、弟妹の結婚式も長男が親代わりとして一家を代表するのである。年齢の問題でなく、ポジションが人を造り、振るまい方も身につけていく。少子高齢化の時代には親代わりは不要になっている。それとともに、いつまでも大人の付き合いを知らない人たちも増えてきた。
おやがわり
親代り
冠婚葬祭と人々の繋がり
親の葬儀を行うこと。長男が喪主を務めるが、家を出た姉弟妹もそれぞれ帳場を設けてお返しもする。喪主だけの帳場の場合、葬儀の後に兄弟分の香典をそれぞれで弔問客によって分けることになる。経費もまた分担する。今は喪主が葬儀代やお寺の払いもする代り、香典は喪主が預かることになる。費用に過不足があっても喪主の責任である。葬儀場で告別式をするようになって、地域独自の葬儀のしきたりもなくなり、「親仕舞い」という言葉もなくなった。
おやしまい
親仕舞い
冠婚葬祭と人々の繋がり
越後一の宮の弥彦神社を勧請した3地区の小さな神社である。祭礼のお札には「伊弥比古神」と書かれていた。嵐除けの神である。伊弥比古がなぜ「おやひこさん」であったかは知らないままであったし、また、日本海側の神が関東の、それも内陸の山間にお出ましになったのか不明である。年に1度の祭日には赤飯を炊いて神棚に上げた。祭礼の日は農事を休む「こと日」でもあったから、農家にとって重要な日であったのであろう。
おやひこさん
お弥彦さん
冠婚葬祭と人々の繋がり
自分の家のこと。家庭内や家格のことまでに及ぶ。子どもたちが「俺家(おらげ)に遊びに来や」と、自宅に招待する。大人は、「あそごと違うんだから、おれげじゃそうだに息張ってお付き合いでぎねよ(あそことは違うのだから、家じゃそんなに無理してお付き合いはできなよ)」と、釣り合わない交際はしないことにしている。何事につけ昔からのしきたりが優先し、「俺家」と「あんた家」のバランスを取らなくてはならない。