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地域を取り巻く様々な生活

八溝の主産業であった煙草栽培は、山間の傾斜地を利用して家族総出での作業であった。葉煙草の一番下の「地づり」が色づくと、いよいよ「赤っ葉取り」の季節となる。下から順に、おぼっ葉 土葉 土中 間中 中葉 本葉、天葉と一枚ずつ、夏の蒸し暑い中、ヤニでべたべたする畝の中を腰を曲げながら一枚ずつ取って、背負籠(しょいかご)で急坂を家まで運び、庭先で縄に挟んでいった。
縄に挟み終えた葉煙草は、はって(煙草を干すための竹を渡した物干し)で干す「連干し」、乾いてから地面に干す「地干し」や、屋内の竹の桟に掛ける「幹干し」などの作業は子どもも重要な働き手であった。「地干し」は縄の先を持ちながら大人とタイミングを合わせて葉先を重ねながら麦藁の敷かれた地面に並べていった。暑さの厳しい中で、根気の要る作業であった。納付の日のお土産が楽しみであった。

あかっぱとり

赤っ葉取り※
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標準語の「上がる」と同じく、入学すること、さらには「おあがんなんしょ(お上がりなさい)」と囲炉裏の縁に上がるように勧めることもあった。ただ、「暗ぐなったがら、そろそろ上っぺや」と仕事を終える意味で使う「あがる」が一番印象に残っている。

あがる

上がる
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「までる」は、「全く」と同じ語源の「まてる」の濁音化したもので、片付けること。今よりも稲の植え付けが遅かったから、時には霜の降るころの稲刈りもあった。ようやく米の脱穀も終えると「秋まで」となり、いよいよ村総出の小学校の運動会である。日が短くなり、最後の種目の部落対抗リレーの時間のころになると、白いパンツと足袋裸足での応援は寒さに震えながらであった。「秋まで」は子ども心にもほっとする言葉であった。

あきまで

秋まで
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馬は早起きなので、前足で地面を蹴ったりして空腹を訴える。農家にとって、朝草を刈ってきて馬に与えるのは、文字どおり「朝飯前の仕事」である。畦の草は朝露で濡れている時の方が良く切れる。背負籠(しょいかご)いっぱいに背負って来て馬に食わせた。余れば保存用の干し草にした。30年代になると馬がいなくなり、叔父叔母も家を出て、大きな母屋は一気に寂しくなった。

あさくさかり

朝草刈り
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「荒」は整地されていないこと、「くれ」は大きな塊をいう。すでに水が入っている田を、田植えまでには「荒くれ搔き」をして、その後に「代掻き」をする。米作りは八十八手の手間が掛るという。「あらぐれかき」は、まだ細かくなっていない田んぼの土を細かくし、土に水を馴染ませる作業で、田植えの準備大事な仕事である。

あらぐれかき

荒くれ掻き
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冬の凍害を防ぐため、コンニャクイモを輪切りにして、竹に通して乾燥させものをいう。粉の前の段階であるから「荒粉」である。さらに粉にした物が「上粉(じょうこ)となる。コンニャクは冬の保存が難しく、囲炉裏の上の天棚で保存したり、大作りの農家では専用の室(むろ)を作って保温した。コンニャクは農協を通さず、業者との庭先取引をしたので、「今年は下仁田の方が安いんで」など、仲買の言い値で買われてしまっていた。その後は補助事業で共同で乾燥用の倉庫を作るなどの協業化も進め、目揃い会で品質の向上にも努めたが、過疎化の中でコンニャク農家は1軒もない。

あらこ

荒粉
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今では鍋が傷めば直ぐに新しいものと交換する。昭和30年頃までは「鋳掛屋」が巡回して来て、鍋や釜の穴を塞いでくれた。鞴(ふいご)などの熱源まで持っていた。庭先に道具を並べて、穴に銅のようなものを溶かして、丁寧に叩いて伸ばしていた。しかしその後、物が潤沢になり、修理して使うこともなくなったから、すっかり姿を消した。「鋳掛け屋」はどんな仕事に転業したのだろうか。

いかけや

鋳掛け屋
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冬になると、畑に穴を掘り、藁で屋根を掛け、あらぬか(粗糠)などで根菜類を保存するという大事な仕事がある。「霜降んねうちにサツマいけどけ」と、特にさつまは保存には気づかいをした。凍らせてはだめだが、温かくしすぎると春先までには「そち」て腐れが入り、種芋にも不自由する。大根(だいご)も「ずがい(すが入る)」て黒くなってしまう。また、「わたばむ(すじが入り編みのように白くなる)」こともある。

いける

埋ける
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土壌を酸性からアルカリ性に改良するために使用した石灰のこと。葉煙草にもコンニャクにも石灰を使ったので、畑一面が真っ白になることがあった。どちらも病害がでやすい作物なので、土壌づくりが収量や品質に直接影響したので、「いしばい」は不可欠であった。購入した石灰の袋には「消石灰」とあったが、意味は分からなかった。いつから「いしばい」が「せっかい」となったのだろうか。購入する石灰の代わりに、カマドで燃やした後の「木灰(もくばい)」も大切な中和剤であった。

いしばい

石灰
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伐採する時に倒れる方向の根本に入れた切り込みで「うけ」とも言っていた。「受け皿」などの「受け」であろう。杉は素性が良い(真っ直ぐ伸びる)ので、片側からだけ鋸を入れると、反対側が大きく裂けてしまう。そこで、あらかじめ予想して、斧で「うけ」を切り込んで倒した。作業の効率化から、倒す方向性も「うけ」で決める。「受け口」の反対は「追い口」である。林業が盛んだった頃に育ったから、八溝の子どもは、山仕事の言葉を聞き知っていた。

うけぐち

受けくち
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田畑を深く耕すこと。耕地の土を反転し柔らかくすることで、必ずしも鍬(くわ)で耕すとは限らない。畜力でも、耕耘機でも「うなう」という。畑だけでなく田を「うなう」こともある。同じように耕すという言葉に「さくる」があるが、畜力の時は使わない。「さくりあげる」と言うように、一鍬ずつ土を上に掻き上げることをいい、田をさくるとは言わない。「うなう」と「さくる」には区別があった。

うなう

耡う
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表作に対する言葉で、標準語である。葉煙草を表作とし、盛夏に葉を摘み終えると、茎を刈り取って裏作として蕎麦を蒔いた。煙草は多肥作物であったから、十分堆肥や厩肥が鋤き込まれていた。痩せ地でも育つ蕎麦には好適であった。裏作の蕎麦は8月の半ばに播種すれば、90日で収穫できるので、日の短くなった11月には収穫できた。秋蕎麦である。蕎麦は畑に1年1度だけの一毛作にすることはなかった。耕地面積の少ないや山間地の知恵である。

うらさく

裏作
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耕地の少ない地域では、斜面の土手に生える楮(こうぞ:こうずといっていた)や漆で少しでも現金収入を得る工夫をした。楮は冬の仕事として、刈り取りから表皮取りまで自家で行っていたが、漆は立ち木のまま専門の漆搔きに売った。漆掻きは「ひっ掻鎌」で樹皮に傷を付け、数日おきに巡回し、しみ出た樹液をへらで採っていった。漆の木の下を通るだけで肌が地腫れして痒くなるのに、漆掻きは樹液を扱いながらどうして漆負けにならなのか不思議であった。国産漆が重宝され、今でも漆?きをしている。

うるしかき

漆かき
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食事を運ぶ桶の「岡持」ではない。陸稲(おかぼ:八溝では「おかぶ」という)の餅のこと。田餅に対する言葉。田餅に比べて粘り気がなく、時間とともにひび割れが起きて、焼いても柔らかさが戻らない。それでも、砂糖醤油で焼いた餅は御馳走であった。田の少ない畑作地の作物であった。

おかもち

陸餅
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「おがくず」のこと。製材所の丸鋸が「きーん」と音を立てながら丸太を板や角材にしていた。やがて丸鋸から帯鋸(おびのこ)になり、より太い丸太も製材できるようになった。製材所の職人は木を見ながら、どこから鋸を入れるかというプロの目で確かめていた。山林を中心とする八溝の子どもには、樹種によって違う「おがっくず」の匂いは懐かしい。

おがっくず

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蚕は家庭の中で一番風通し良い場所で飼われ、大切に扱われていたから、語頭に「お」を付け、語末には「様」と最大級の敬称を与えている。小学生の頃は、畳を上げたお勝手では桑の葉をワシャワシャと音を立てながら食べるオコサマと一緒に生活していた。早くに養蚕がなくなり、桑の木は、縦横に枝を伸ばし、密林のようになっている。我が家には代々続く紋付きの羽織袴があるが、布地は自家製の物で、所々に糸を繋いだ跡がある。

おこ(ご)さま

お蚕様
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飼い葉にする手押しの藁切り器械。始めは単純な台の上に刃が付いていたものであったが、やがて、刃を持ち上げるたびにベルトに乗った藁が自動的に供給されるものが普及してきた。「小野製作所」と焼き版が押されていた。当時は、各所に農機具製作所があって、それぞれ地方に合った農機具が作られていた。我が家では飼い葉以外に楮(こうぞ:こうずと言っていた)を切るために、昔ながらの押し切りを使って、同じ長さに切り揃いていた。エンジンがつく農機具が普及すると、地方の農機具メーカは衰退した。

おしぎり

押切り
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冬になると巡回してきた。竹は家の裏にある孟宗竹や真竹を使った。庭先に筵(むしろ)を敷いて、竹を割り、小さい笊(ざる)や目籠(めかい)、大きな木の葉っ籠まで美事な手さばきで作り上げる。その様子を飽きずに眺めていた。竹の先が生きもののように躍動していた。家には様々な職人さんが来たが、大工さんが来れば、鉋(かんな)の透き通るような鉋っくずを手にとって感心し、将来は大工になろうと考え、篭屋さんが来れば篭屋になってみようと思った。考えれば、最も才能がない分野であった。

かごや

籠屋
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「金沓」は蹄鉄(ていてつ)のこと。どの家にも馬がいたので、村に一件だけあった金沓屋が巡回して、伸びた爪を切り、新しい金沓に取り替えていった。金沓は大きな釘で留められていた。爪を切る独特の鎌状の刃物があった。取り外された古い金沓は回収して再び焼き直して使ったのであろう。兼業農家の我が家では昭和30年頃には馬がいなくなり、厩の跡は子どもたちの「勉強部屋」となった。

かなぐつや

鉄沓屋
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目の細かい筵(むしろ)を袋状にしたもの。様々な穀物などを入れて保存した。塩もかますに入ったものを買った。1袋20kgほどあったろうか。塩は湿気を含んで大きな塊となり、少しずつ削るようにして使った。かますを2本の棒を渡した桶の上に置くと、水分を含んで苦汁(にがり)が出来て、溜まるので、自家製の豆腐を固めるのに使った。買うような豆腐にはならなかった。

かます

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煙草農家では、母屋よりも大きな乾燥場が必要であった。葉煙草の幹に竹釘を打って竹の竿につり下げて火を焚いて乾かす「幹干し」をすることにも使い、一枚ずつ縄に挟んで庭先で乾燥させるたものを取り込んでおくことにも使った。耕作面積の大きな農家は、その分大きな納屋が必要であった。煙草の収納が終われば子どもの遊び場にもなった。今はタバコの耕作者皆無となり、トタン屋根が赤さびた大きな「かんそば」が目立っている。国策で勧められたものが、時代に取り残されている施設の典型である。

かんそば

乾燥場
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葉煙草を幹に葉を着けたまま屋内の屋根裏に干ほすこと。この作業を「きがけ」と言った。字は「木掛け」であろうか。縄のより目に合わせて一枚ずつ挟んで屋外で乾かす「連干し」と作業が重ならないようにしたもので、ゆっくりと屋内で乾燥させた。干上がると屋根裏から下ろして、幹から外して何枚かまとめて藁で縛っていく。手間の掛る仕事であった。我々世代の農家の後継者は、労働力を必要とする葉タバコからコンニャク栽培に切り替えるようになった。それでも田所の農家との収入差は歴然であった。

かんぼし

幹干し
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手刈りした稲束を「はって(稲竿)」に掛けて露天干しをすること。「架干し」の意味か。コンバインが普及するまではどの農家でも「がぼし」をした。今でも乾燥機よりも天日干しの「が干し」が美味しいと、わざわざ「はってがけ」をする農家もある。最近の稲作の機械化はめざましいものがある反面、稲作文化の伝統がすっかり失われてしまっている感じがする。

がぼし

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葉煙草の幹に葉を着けたまま屋内の屋根裏に干す「幹干し」(かんぼし)の作業のことを言う。母屋の畳を剥がし、臨時の乾燥小屋になる。家中が煙草の脂(やに)の臭いがするうえに、葉に付いていた青虫が囲炉裏の煙で燻されて落ちてくる。梁の高い場所で竹の桟(さん)にかけるのは大人の仕事で、煙草の茎に竹釘を刺すのは女たち、そして梁から降りてくる縄に、葉の付いた幹を括り付けるのは子どもの仕事であった。時期を外すことができないので、真夏の一家総出の仕事であった。

きがけ

木掛け
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正しい意味も漢字も知らなかったが、子ども心に恐ろしい言葉であった。タバコ栽培は専売制で確実に買い上げてくれる換金作物として、畑作中心の山間部では大切な収入源であった。乾燥した葉煙草を子どもまで動員して「煙草熨(の)し」をして、村役場の近くの煙草収納所に、荷車に載せて運び込む。(まだリヤカーは普及していなかった)検査員による厳しい選別が行われ、乾燥が不十分であれば「きゃっか」となった。当てにしていた収入が無くなり、もう一度手間を掛けて乾燥し直さなくてはならない。何より不名誉なことで、村中に知れ渡ることになる。

きゃっか

却下
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今も変わらず発音は「きょうしつ」である。狭い沢筋の田圃で作った米も自家消費だけで終わってしまう収量にも関わらず、食糧難の20年代は供出が割り当てられていた。農家でもサツマ混じりのご飯だったり、ムギの方が多い麦飯であった。それでも弁当を持たずに登校する級友もいたことからすれば恵まれていたとも言える。小学生で「供出」の制度は分からなかったが、周囲の大人の雰囲気から、無理でも出さなくてはならないという意識を感じ取った。今では農協に出しているのにもかかわらず、「供出」の言葉は生きている。

きょうしつ

供出
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発酵を均一化するため、堆肥を農業用のフォークで天地替えをすること。まだ元の形状を残している下側の木の葉と、すでに発酵の進んだ上部の葉を入れ替える。体力も気力も要る仕事であった。堆肥づくりは農業の基本であった。我が家では、堆肥づくりが出来なくなって、兼業農家も終わりとなった。堆肥を作らなくなったので「きりかえし」も不要の言葉となった。今は、全く別の意味で、車の切り返しで使われる。

きりかえし

切り返し
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スプレーではない。口に水を含んで乾燥した葉煙草に霧を吹きかけること。乾燥の状態を見て吹きかける量を加減し、縮れている葉を傷めずに伸ばすために湿り気を与えた。熟練のいる仕事であったから婆ちゃんがやった。婆ちゃんが葉の元の方を持ち、孫は葉先の方を持って、一枚ずつ熨していった。婆ちゃんができなくなる頃には、煙草作りを止めた。農休みの時は、近所の農家に手伝いに行っていた。

きりふき

霧吹き
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今は化学肥料など農協やホームセンターで買うものを指すが、かつては堆肥や厩肥などの自家製の肥料に対し、鰯を干した干鰯(ほしか)や油粕など、金を出して飼う肥料を言った。江戸時代に始まった葉煙草栽培は肥料をたくさん必要とすることから、金肥」が必要であった。そのため肥料屋への払いが大変で、不作の年には肥料代が払えず、土地を取られる農家もあった。どの町でも肥料屋は質屋も兼ねていた。干鰯はすでに江戸時代から茨城や千葉の海から移入された。八溝の言葉も海側の地域の影響を受けたものが多いはずである。今は化学肥料のことを金肥と言うようになった。

きんぴ

金肥
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薪を集めること。子どもの仕事としては、杉っ葉とか、枯れ枝などの焚き付けを集めて背負ってくることであって、鉈(なた)を持って枝を切るのはは大人の仕事であった。ガスや石油のない時代、「きーこり」は小学生の中学年になれば誰でもやらなくてはならない仕事であった。背負い縄1本でうまく背負うためには、枝の端を中に折り込んで長さを揃え、きれいに「まるか(束ねる)」なくてはならない。暗い杉山に入っていくのは心細かった。子どもたちの成長には欠かせない仕事の一つであった。

きーこり

木樵り
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伐採した丸太を土場(どば)まで運ぶこと。林道も整備されていないし、他に運搬手段がなかったので、もっぱら橇(そり)が用いられた。腰にバンギが滑るようにするための油(使い切ったエンジンオイルか)を提げ、橇を担いで伐採地まで行って、丸太を橇に乗せて橇道を滑らせて運ぶ。熟練と体力の要る仕事であった。昭和30年代後半には木材の好景気が終わり、橇引きの姿も見えなくなった。今では伐採期を過ぎた杉や桧が枝打ちされないままになり、商品価値を失い、売っても木主の収入にはならなくなってしまった。林道が奥深くまで延伸されたが、管理されないまま崩落している場所も目立つようになった。「きーだし」をしなくなってしまったからである。

きーだし

木出し
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単に杭でなく、棒が付き、より長さや強度が強調される。稲を架ける「はって」の杭は背丈より長く、丈夫なものでなくてはならない。脱穀が終われば役目が終わり、翌年まで湿気の少ない縁の下に格納される。何十年も使い続けたものである。

くいんぼ

杭棒
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細かく切ることだが、特に薪を細かく切ることをいう。刃物を使うから「くだぎる」のは大人の仕事であった。杉や桧の伐採は専門の「きーきり(木伐り)」がやるが、太い枝や材木にならない「うらっぺ(先端)」は薪として自由に使うことになっていた。背負梯子(しょいはしご)で背負い出せる長さに、鉈や鋸で「くだぎって」運び出す。家に来て太い丸太を斧(よき)で割るのも「くだぎる」ことである。

くだぎる

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脱穀するときに使うもので、棒の先に回転するものを着け、地面に水平に打ち付けるようにした農具。大豆や小豆をこなす(鞘から外す)時に、筵(むしろ)に広げて、叩くと実がはじける。軽作業であったが時間が掛る根気の要る仕事であった。多くは女性の仕事であり、我が家では婆ちゃんが担っていた。誰が考えて、どのように広がっていったのか、地域によって少しずつ構造が違う。生産物の違いからであろう。足踏み脱穀機が普及するまでは普通に使われていた。

くるりぼう

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杉や桧、松などの常緑樹を指す。古来、黒と緑は混同され、「緑なす黒髪」ともいう。特の濃い緑の杉などは黒の範疇であったのであろう。戦後の材木ブームに乗って、雑木山を黒木山に転換したが、外材に押され、さらに住宅の建築材の変化により、八溝の黒木は適期を過ぎても伐採されない。そのため、黒木が伸びて、季節の変化も感じられなくなり、谷間の村が狭く感じるようになってしまった。

くろき

黒木
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「のっぽ」は火山灰などが厚く溜まった土のこと。八溝山地は中生層で粘板岩や頁岩(けつがん:堆積岩の一種)の基層の上に薄い砂礫が堆積した地層で、水はけはよいが地味は痩せている。そういう中で所々に関東ロームの火山灰が溜まった所がある。「黒のっぽ」である。酸性であるから石灰(いしばい)を巻いて中和する必要があった。

くろのっぽ

黒のっぽ
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畦畔で畦(あぜ)のこと。方言でなく、農業の専門用語である。農業の専門用語は、もとからある言葉に代えて、行政機関や農業教育機関が権威を高めるため、難しい言葉を用いることが多い。「ばっかんちょうこう」は「麦間中耕」であった。教育が行き届いていたから、農家の年寄りも当然のように使っていた。子どもながらに耳から聞いて、様々な農業用語を覚えた。「畦畔」もその一つである。

けいはん

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発動機の普及とともに、「ケッチン食う」という言葉が広まり、子どもたちに中にも広がった。発動機を始動する際に、弾み車に付いている取っ手持って回転をかけている時、圧縮比に負けて反対回転となって大きな衝撃を受ける。このことを「ケッチン食う」といった。後に知ったことだが、もともと英語の「ケッチング」という内燃機関の専門用語である。発動機の始動は難しく、圧縮比を調整をしながら、ケッチンを食わないような注意が必要であった。水冷の発動機は水が沸騰しているので、時々水を加えた。バネの動きからピストンの上下動も分かり、見ていて飽きなかった。人間関係でも思いも掛けず反動を食うと「けっちんくった」と言った。

けっちん

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糞尿のこと。田んぼの脇にある下肥を貯める場所を「げすだめ」と言っていた。人の中でも「げす」というえば、最低な人という意味になる。げすは「下衆」から来ていると思われるが、どこで人糞の関わるか。人糞は汚い物でありながら農家にとっては欠かせない肥料であった。

げす

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堆肥を入れて、脇に抱える竹の笊(ざる)。堆肥は重いので、「たがら」で背負って畑まで運び、抱えられる大きさの竹の「肥ひご」に分けて作物の根もとに振りかける。紐を付けて肩に掛けたりもした。「こいひご」とは言え、様々な用途があり、ジャガイモなどの収穫に便利な大きさであった。肥は「こえ」と「こい」中間の発音で、多くの場合「エ」は大きく口を開けなかったから、「い」との区別がないことが多い。

こい(え)ひご

肥ひご
地域を取り巻く様々な生活

地域の後継者の中で、高校の農業科を卒業した若くて意欲のある長男は、機械の導入にも積極的であった。トーハツの発動機を導入し、足踏みの「がーこん」から発動機による脱穀機へと代わっていった。さらに芝浦の耕耘機が普及し、畑の耕耘はもちろん、トレーラーを連結して堆肥を運び、畑からは収穫物を庭先に運んだ。耕耘機が導入されると農道が改修され、圃場の整備も進み、一気に機械化が進んだ。兼業農家であった我が家は、ついに耕耘機は導入されないままに、家の周囲だけを耕す庭先農家になってしまった。ただ、その頃から半世紀で、兼業農家さえもなくなり、八溝の農村は一気に変貌した。今は耕耘機の代りに、管理機と言われる「こまめちゃん」を使い、庭先を耕している。

こううんき

耕耘機
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「こうぞ」の転訛で楮のこと。田畑の少ない山間の地では、土手もまた生活費を生み出す場所であった。河岸段丘の急斜面にはこうず(こうぞ)を植えて、農閑期の冬の余業とした。楮は桑と同じく、根刈りしても翌年にはまた株から同じように芽を吹き出した。煙草の納付を終えた12月になると楮を根元から切って、押し切りで長さを揃えて、大きな釜に入れて茹でる。釜の上にも蒸気を逃がさないように鍋のようなものを乗せた。茹で上がると、樹皮を剥ぎ取り、水に漬けて柔らかくしたところで、一番上の黒い表皮を刃物で剥いでいく。「表皮取り」である。白い部分だけになった紙の原料は仲買人によって烏山に運ばれ、「烏山和紙」となった。紙漉の苦労は知られているが、その土台には山間の婆ちゃんたちの知恵と汗の結晶があった。

こうず

地域を取り巻く様々な生活

屈むこと。山間の畑作ではこう曲がっての作業が多く、特に傾斜地では腐葉土が下に流れないように上から下を向いて鍬で「さくりあげる」作業もある。その際はいっそう「こう曲がる」ことになる。山間地の年寄りの中には腰が「こう曲がって」いる人が多かった。今は畑は耕作放棄地となり、こう曲がる作業が無くなり、腰のこう曲がった人も少なくなった。

こうまがる

こう曲がる
地域を取り巻く様々な生活

馬屋から馬の糞尿の混じった藁を戸外の堆肥貯めに出すこと。葉煙草農家では、大量の肥料が必要であった。中でも、根張りを良くするため、土地を柔らかく保つ木の葉の類の堆肥と厩肥は不可欠であった。馬は、馬耕などの労役に使うだけでなく、厩肥を作る役割があった。しかし、同じ家の中にいることから、「肥出し」をしないと臭いがひどくなり、特に夏場は家中に馬小屋の臭いが充満した。

こえだし

肥出し
地域を取り巻く様々な生活

物を小さく切ることで、藁を「こぎって」飼い葉にして馬に与えたし、木の枝もほどよい長さに「こぎって」薪にした。農家では既製品を買うことを減らすため、自らの手で加工し、保存しながら利用した。「こぎる」作業は日常的なことであった。一方で、農作業でなく、値引きを求めることを「こぎる」と言った。町に行って、お店で「もうすこしまけどこれ(もう少し安くしてください)」と「こぎる」交渉をしたが、山間の農家は情報量も少なく、「こぎった」としてもたかが知れたもので、商店では織り込み済みの「正札」をつけていたことであろう。

こぎる

小切る
地域を取り巻く様々な生活

畑や道路に張り出してきた枝を「木障(こさ)」と言う。日照時間が少なくなるので作物の収穫に影響するから「木障切り」は山間の農家では毎年の仕事であった。畑の隣の山際の樹木は光を求めて畑の方にどんどん枝を伸ばしてくる。毎年の大事な作業である。今は、耕作放棄地が多くなり、畑は「こさ」でなく、林や篠藪になりイノシシの格好の隠れ場所になっている。道路も道普請で集落全体が「木障切り」をしていたが、共同の作業をしなくなったので、道路まで木が覆い被さってしまっている。

こさぎり

木障切り
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広辞苑には、「砕いてこまかくする、食物を消化する、自由に扱う、仕事を済ます」などと載っている。当地方で「こなす」といえば、収穫の最後の作業をいう。軒下の並べておいた小豆を筵(むしろ)に並べ、くるり棒で叩いて豆を莢(さや)からはぜさせたるするようにするのは、小豆を「こなす」という。これで農作業すべてが終わる。広辞苑の中にある「仕事を済ます」ということと、八溝の「こなす」が通じる。日常生活でも世渡りが上手な人は世事を器用に「こなす」ことが出来るのである。

こなす

熟す
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方言ではない。日ごろは洗濯物も「込む」と言うことで使ってるが、農家では、葉煙草に最も気遣いをした。入道雲が出てきて遠雷が聞こえたりすれば、水遊びから急いで家に帰り、庭中に広げておいた「地干し」の煙草を乾燥場(かんそば)に込んでいったり、はってに掛けておいた連干しの縄を1か所に集めて菰(こも)を被せた。小学生も貴重な労働力であった。「込む」と言えば煙草が連想される。

こむ

込む
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神様の仕業であるから、ゴロゴロなる音に敬称を付けたものであり、雷様(らいさま)ともいう。夏場に遠くで雷鳴が聞こえてくると、干している煙草を取り込まなくてはならないので、子供たちも遊びを止めて家路を急いだ。蒸し暑かった昼の気温が下がり、ゴロ様が過ぎた後の土や草の臭いは忘れられない。
ほど良い時期に、ほど良い量のお湿りは農家にとって文字通り干天の慈雨であった。時雨に「お」と畏敬の念を込めて敬称を付け、雨乞いの雷神様をお祭りしている地域も多い。雨の降らない空雷様(かららいさま)は落ちるから気をつけろと言われた。

ごろさま

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標準語として広辞苑には「ごみどころ」の約と出ているが、八溝の「ごんど」は単なるごみではない。藁仕事の後や脱穀の際に出るゴミなどをいい、生ゴミんどは含まない。五右衛門風呂ではごんどが重要な燃料であった。庭先には「ごんど」を集めて置く場所があり、ニワトリが足で「かっちらして」いた。ビニールなどが普及する前であったから、燃やしても有害物質は出なかった。自分の家のゴミは自宅で燃すのは当たり前であった。

ごんど

埃処
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標準語には「才槌(さいづち)」とある。農具の中でも最も単純なもので、おそらく農耕を始めたころの弥生人も使っていたに違いない。長さ30センチほど、太さ15センチほどに丸太を切って、半分の所から握りやすい太さ削ったもので、小豆などを脱穀するのに使う。脱穀以外にも、杭打ち、藁打ち、さらに楮(こうぞ)を柔らかくして表皮を剥きやすきする時にも使った。単純であったが汎用性があった。

さいつきぼう

才突き棒
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雑木を一定の長さに切断し、太いものは斧(よき)で割って針金で束ねた薪のこと。「さいまき樵(こ)り」はガスや石油が普及する前までは、冬の農閑の仕事として、ほまち(帆待ち:余業)稼ぎとなった。ナラやクヌギなど広葉落葉樹の堅木は火力が強く長持ちし、炭とともに薪炭屋が買い付けた。決まったサイズの針金に差し込み、最後には緩まないように叩き込む。一束で10キロ程度であったから、小学生には二束が限度であった。山から道路まで背負梯子(しょいばしご)で下ろし、一冬の間頑張って町に行ってグローブを買った。30年代までの雑木山は、下刈りをして三本から四本程度の株立ちにして更新して、順に炭や薪にしていったので、きれいに維持され、キノコもたくさん採れた。今は薪は使われなくなり、荒れ放題である。町には薪炭店が何軒もあったが、やがて石炭やプロパンを扱う燃料店となり、さらにガソリンスタンドになったが、過疎化の中で廃業が続く。

さいまき

裂薪
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「さくる」は広辞苑にもあり、「溝状に掘る」、さらには「すくうようにして上げる」という意味で、いずれも古い用法で、方言ではない。鍬で「さくる」ことは古来の用法に合致する。ただ、当地方では単に「さくる」でなく、傾斜地の畑であるから、上から下に「さくって」いると、上の方の土が薄くなってしまう。そのため、逆に「さくりあげる」必要がある。雑草を鋤込み畝立てするまで、力のいる仕事であった。平場の農家よりも腰の曲がった年寄りが多かったのも「さくる」作業が大きな負担であったからであろう。

さくりあげる

地域を取り巻く様々な生活

英語のショベルが転訛して「さぶろ」になった。スコップは、オランダ語から入って来た古い外来語である。本来の英語表現「ショベル」に変えるべき若い人たちもスコップと言う。「サブロ」は全く使われなくなったが、子供のころはもっぱらサブロであった。明治に外国の文物が入って来た時、耳から聞いた言葉がそのまま使われた例である。さすがにインキはインクになったが、会社名はパイロットインキのままで、車もブレークでなくブレーキである。

さぶろ

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標準語は桟俵(さんだわら)。俵の両端の丸い蓋のことをいう。俵を編むのも夜なべ仕事だったし、「さんだらぼっちも」すべて自家製であった。ぼっちは「藁ぼっち」というように、ひとかたまりの山の状態を言うが、さんだらぼっちは円座のように、扁平でありながら、なぜ「さんだらぼっち」か。

さんだらぼっち

桟俵ぼっち
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標準語では備中鍬と言っている。馬耕が出来ない不整形な山間の田の耕起は三本鍬の出番である。粘りのある田の土が張り付かないので、三本鍬が欠かせない。田起こしは重労働であったが、今は耕作放棄地になっているので三本鍬の出番はなくなった。ただ、畑の芋掘りには芋を傷つけないために三本鍬が今も使われている。三本鍬と言っていたが、刃が短く4本のものもあった。

さんぼんぐわ

三本鍬
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竹や寒竹、藤蔓などで編んだ「ざーる」は、身近な家庭生活でなくてはならないものであった。食器やうどん、そばなどの水切り、さらには乾燥(かんそ)芋や大根の干物を作るなど、用途が多用であった。用途に合わせて、形状や大きさも種々で、大きくて扁平なもの、やや深みのあるもの、さらには編み目が細かい物から六角形の粗いものまで使い分けた。今では金属やプラスチック製となったが、まだ古い竹の「ざーる」は物置にしまわれたまま残っている。

ざーる

笊(ざる)
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柵(しがらみ)のこと。土手の崩落を防いだり、堀を堰き止めるために杭を打ち並べ、一段ごとに交互に竹や粗朶(そだ)を掛け渡したもの。土側溝であり、コンクリートやブロックの擁壁は無かったからしばしば土手が崩落した。その都度「しがら」で崩落を防いだ。「しがら」が腐るころには草が根付き、元に戻っている。昔からの知恵であろう。「しがらみ」は堰き止めるものから発展し、比喩的に人の心に引っ掛って自由を奪うものとなった。

しがら

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畑作農家にとって堆肥は大切な肥料である。特に楢(なら)や椚(くぬぎ)の葉は栄養分が豊富である。楢や椚の葉だけを集めるには、篠などの下草刈りが欠かせない。さらに不要な雑木を伐倒し、熊手が使い易いように枯損枝を集めてきれいにする。農閑期の大事な仕事である。30年代までは、薪炭にするため、10数年に1度の萌芽更新をしていた。切り倒した株からは、多くのひこばえが出るが、バランスを考慮して3本から4本立ちにする。放置しておくと高木となり樹齢とともに枯死してしまう。雑木林は下刈り作業によって維持されてきた。今は燃料にも堆肥にも使われず、雑木林は「ぼさっか」になり、キノコも出ないで、イノシシの住み処になってしまった。もはや雑木山の再生は不可能である。

したがり

下刈り
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村に1軒だけ、役場の前に洋服の仕立屋さんがあった。洋服を着る人は少なかったが、既製服というものが普及していなかったから、田舎でも需要があったのであろう。父親の背広もこの仕立屋さんのものであった。私が就職した時の祝いに、母に贈ってもらったのもこの仕立屋さんの背広である。親子2代にわたって世話になった。今は仕立屋さんは無くなり、隣の床屋と雑貨屋もなくなってしまった。

したてや

仕立屋
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容器から水を切ること。滴(したた)ると同じ語源か。あくを抜くための下拵えの水も「したんで」水切りをする。小学5年生ころから御飯炊きをするようになって、洗米する時に米を流さないよう、左手の小指の部分で水を「したん」で白い水が出ないまで何度も洗った。子どもでも普通にやる仕事であった。

したむ

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八溝の言葉の特徴に「や・ゆ・よ」を小さく表記する拗音が欠落するのに、左官は反対に「しゃかん」となり、さらに濁音化した。近所に「しゃがんや」さんが住んでいたので、壁を塗る人だと言うことは分かっていた。ただ、文字が分からず耳から入った言葉がすべてであるから、左官という漢字とは結びつかなかった。この他でも、訛りとしての情報が定着してしまっていたので、ふとした機会に子どもの頃に獲得した訛りが出てしまうのは一再ではなかった。

しゃがん

左官
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農具は、農作物の違い、耕地の条件などにより地域によってには様々な変化がある。長い間にその土地にふさわしい農具が工夫されてきた。木の葉を運ぶ「木の葉っ籠」は背丈よりも高く目も粗い。軽い木の葉を1度にたくさん運ぶためであった。目の大きさは同じでも、重い煙草の葉を運ぶ籠はずっと丈が低い。冬になると竹屋が来て、竹藪の竹を伐って、庭先で何種類かの籠を編んでいった。先端部分が生き物のように躍動し、その手際の良さに見入っていた。篭屋は那須北の方から来ていたというが、正確には分からない。

しょいかご

背負い籠
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粗朶(そだ)っ木を採りに行く際、縄だけを持って山に出掛ける。U字に置いた縄に薪を横にまとめ、縄の真ん中に首を通し、両端の縄の端を脇の下から回して引っ張る。こうすれば容易に背中に背負うことができた。背中に直接当たることはあっても、背負い梯子を背負い上げずに済む。最も単純な背負い道具で、おそらく縄文人も利用していたに違いない。後に登山の緊急搬送でほぼ同じやり方を学んだ。

しょいなわ

背負い縄
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登山では同じ形状の「背負子」(しょいこ)を使う。語源は同じだが、当地方の「しょういばしご」は、農業用の運搬具である。背負う物と場所によって「しょいばしご」を使い分けた。茅(かや)など軽くてもがさのあるものは頭の上まで背負うための、文字どおり梯子になるようなものであった。薪や炭など荷が重く、しかも急坂を背負い下ろす時には斜面にぶつからないように短いものを用いた。休む際に、長い背負い梯子は程よい斜面でもすぐに立ち上がることができたが、短い背負い梯子は段差のある場所に下さないと、立ち上がるのに無駄な力が必要でああった。小学生の上級学年になると、「しょいばしご」で炭俵二表を道路まで背負い下した。結構な稼ぎになった。足腰が丈夫になったのも「しょいばしご」のおかげである。

しょいばしご

背負梯子
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家から2キロほど離れた大子街道には、戦前の鉄道省の省有バスの時代から国鉄バスになっても、常陸と下野を結ぶ常野線が通っていた。烏山線終点の烏山駅と水郡線の大子駅を結んでいた。馬頭まで行くのには、30分掛けてバス停まで歩いていった。昭和27年には家の近くに支線が伸び、「朝間」「お昼」「晩気」の一日3本が通るようになった。婆ちゃんに連れられ馬頭に行く時は「しょうゆバス」に乗って終点の「ガレジ」で降りた。どうして「醤油バス」なのかずっと分からないでいた。今は、支線の「大那地行」はもちろん、幹線の常野線も廃止され、県境までデマンドタクシーが走っている。

しょうゆばす

省有バス
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選(よ)りすぐるという共通語があるが、農家では藁(わら)を「すぐる」と言う時に使った。藁は筵(むしろ)や菰(こも)にもなり、草履(ぞうり)や蓑(みの)にもなった。さらに縄として日常生活でも不可欠であった。藁を使うためには、指の間に入れて、少しずつしごき、わらっし(ち)び(藁しべ)を除いて芯の部分だけにしていく。さらに湿して「さいつき棒」で叩いて、加工しやすく柔らかくする。「すぐる」時に手を抜いてしまうと縄も筵(むしろ)もいいものができなかった。

すぐる

選る
地域を取り巻く様々な生活

冬になり、木の水分が少なくなる頃になると、炭焼きさんが村にやってくる。原木では重いが製品になれば軽くなることから、原木のある山に炭窯を築き、小屋掛けをして生活した。県北の黒田原辺りから「単身赴任」であった。炭俵も茅山で刈り取って手作りであった。椚(クヌギ)などの雑木は定期的に伐採され、きれいに整枝されて、世代交代をしていた。また、堆肥用の落ち葉さらいのため、下刈りが行われて雑木山は維持されてきた。今は山から炭窯の煙が上がることがなくなって久しい。炭窯の独特のタール匂いが懐かしい。

すみやき

炭焼き
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水苗代と陸(おか)苗代の良さを取り入れた育苗方法。ビニールが普及する前であったので、油紙で夜間の温度を下げないようにしたから、保温折衷苗代とも言う。今までの育苗方では気温に左右され、田植え時期が遅れて収量に影響が出たり、病害が出たりすることもあった。折衷苗代が考案されてからは、田植えの時期を逆算して苗代しめをする。今はビニールハウスで育苗するから、さらに発芽の時期が早まり、二百十日前には収穫が終わる。「二百十日」という大事な言葉も不要になった。我が家は苗をもらって田植えをする兼業農家であった。

せっちゅうなわしろ

折衷苗代
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庭先の畑で作る野菜のこと。前栽は、もともと庭の植え込みなどを指すが、庭先で作った野菜の類を指すようになった。売り物などでなく、家庭で日常的に使う野菜である。八溝の山間では、消費地が遠く、輸送手段がないから、販売用の野菜栽培は不可能であった。それぞれの家庭で自家消費するものが、「せんざいもの」であった。前栽物を作るのは「前栽畑(せんざいばたけ)」である。国道に面したところには野菜直売所があり、交流人口の増加とともに賑わいを見せているが、おっとまり(行き止まり)の集落には恩恵がない。

せんざいもの

前栽物
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「すっぽ」は筒のこと。竹は生活になくてはならないものだった。孟宗竹をはじめ、真竹、黒竹、布袋竹など、家のまわりに豊富にあった。中でも、那須地方の孟宗竹は、強い北風に耐えることから、しなりがあり、丈夫な籠の材料となった。籠の他にも、筒状の容器として使われたり、子どもの遊び道具にもなった。山仕事には、蓋が付いた「竹すっぽ」を腰に提げて出掛けた。日常生活で「竹すっぽ」はなくてはならないものであった。教室を彩った季節の花も竹すっぽに生けられていた。

たかすっぽ

竹すっぽ
地域を取り巻く様々な生活

縄で編んだ肥やしを運ぶ背負い道具。エゴノキなど強くて柔軟性のある木の枝を枠にして、底が細く上部が太くなるように逆三角錐に編み込んだ背負い籠のこと。なぜ竹の籠でなく、縄で編んだものが使われたのか。重い堆肥を運ぶため、頑丈であることが優先されたのだろう。運ばれた肥しを、手で携帯できる大きさの「こいひご」に分けて畑にまいた。

たがら

地域を取り巻く様々な生活

畦から苗を配る役割で、苗代から苗の調達もしなくてはならない。田には入らないから、陸回り(おかまわり)ともいう。もともとは田植えを仕切る主の仕事が語源であろうが、子どもの私も「たろうじ」と言われていたから、進行を見ながら苗の過不足がないように、畦から苗の束を配る役割が「たろうじ」だった。田植機が普及して「太郎次」は要らなくなった。

たろーじ

太郎次
地域を取り巻く様々な生活

広辞苑には「東北・関東・熊本県で人糞肥料」とある。畑に人糞を掛けることを「ダラ掛け」あるいは「ダラ撒き」といい、さらに便壷から桶に汲むことを「ダラ汲み」と言った。畑作にとってダラは厩肥や堆肥とともに重要な肥料であって、決して汚いものではなかった。予算が少ない学校でも上級生にダラ汲み当番があった。天秤棒の前後の桶に入れたダラがはねないよう、腰の上下動を少なくして、近くの山の穴に運んで捨てた。学校の「だら」は小便ばかりであったので汚い感じはしなかった。
今は汚い物として活用されることもなく、浄化槽に流れてバクテリアの餌になっている。畑から漂う田舎の香水も無くなり、代わりに手軽な金肥が使われている。

だら

地域を取り巻く様々な生活

粗朶(そだ:刈り取った木の枝)の6束を1段とする。山仕事には平場(ひらば)とは違った独特の言葉が多い。その一つが「段」である。冬に入って木の葉さらいが始まる前に、立木の不要な枝を切り落とし、地面の枯れ枝を集めて束にする。一作業の目安として6束まとめると1段として、1か所にまとめておく。稻藁も6束丸めると1段であった。

だん

地域を取り巻く様々な生活

重機のないの時代は土砂の運搬に畚(もっこ)が使われた。畚は二人で担ぎ、後棒が先に肩に掛け、その後で先棒が肩に掛けて調子を合わせながら土砂を運ぶ。先棒担ぎは後ろの指示に従って調子を合わせることから「お先棒担ぎ」とされた。人の顔を見ながら調子を合わせる人を、軽蔑の意を込めて「調子畚」と言っていた。戦後間もない頃の大きな台風で堤防が決壊し、その補強工事では畚が用いられていた。
畚が民俗史料となって、畚担ぎはいなくなったが、「調子畚」はいつの時代もなくならない。子どもの頃から工事現場を見ることが大好きであった。

ちょうしもっこ

調子畚
地域を取り巻く様々な生活

藁つとのこと。納豆(なっと)を寝せる(発酵させる)時に入れる藁で作った入れ物。冬になると婆ちゃんが大豆を煮て藁苞に入れ、土に埋めて納豆を寝せた。藁に付いている自然の納豆菌で発酵し、人工的に菌を加えることはなかった。糸の引く納豆ではなかったが、藁の臭いと大豆の香りが残っているものは、後に買って食べた納豆とは味わいが違う。醤油だと糸引きが悪くなるので、塩で味付けをして、何十回もかき混ぜた。藁の香りがする懐かしい味である。

つとっこ

苞っこ
地域を取り巻く様々な生活

従来の丸麦に対して、扁平に押しつぶした麦のことで、押し麦と同じ。丸麦の場合は、米よりも煮えるまでに時間が掛るから、事前に麦だけを柔らかく「い(え)ます」必要があった。わざわざ竈で炊くのではなく、囲炉裏の脇に五徳に乗せて、時々かんまぜる(かき混ぜ)ながら、かたっつら(片方)だけでなく、全体に火が通るようにして事前に柔らく煮ておいた。その後、潰した押し麦が普及してきて、米と一緒に煮ることが出来るようになった。自家生産したした大麦をつぶし麦にするために精米所に頼んだり、専門の業者がマツダのオート三輪で巡回してきた。扁平な「つぶし麦」の真ん中には黒い線があり、これぞ麦飯であった。その後黒い線がない麦も出回るようになった。

つぶしむぎ

潰し麦
地域を取り巻く様々な生活

把手の付いた木製の桶。金属のバケツが普及する前は手桶が普通であった。井戸から手桶に水を汲んで風呂や台所に運んだ。自分の腕力を考慮して水量を加減して、跳ねないように、腰を上下動しないで両手で運ぶのはコツが要った。

ておけ

手桶
地域を取り巻く様々な生活

一般に、「手間」は時間や労力のことであり、手間がかかるとか手間暇掛けてなどと使う。八溝では、本業以外に「手間賃」を稼ぐことを言う。冬場の農閑期には工事現場などに出て手間取りをすることも多かった。ところが、30年代後半になると、本業の農林業が衰退し、年間を通して手間取りに行くようになり、今は手間取りでなく、勤め人になってしまった。

てまどり

手間取り
地域を取り巻く様々な生活

茶摘みの際に摘み残した芽を言う。多くの農家では自家製のお茶を作っていた。八十八夜の別れ霜も無事すぎ、新芽がほき(芽が大きくなる)て来れば新茶の摘み取りである。一番茶は柔らかく香りもいいので丁寧に摘み取られる。隣近所ともやいっこ(結い)をして摘み取り、せいろ(蒸籠・せいろう)で蒸かし、焙炉(ほいろ)で均等に熱が通るようにしながら揉んでいく。土間には一年に数度しか使わない焙炉があった。焙炉は茶葉を揉みながら乾燥させる1畳ほどの大きな土の炉で、隣近所からも摘み取った茶葉を持ってきて共同で作業をした。新茶は貴重であったので、一番茶を摘んだ後の摘み残しの「手むぐり」をもう一度摘み直すことになる。これも二番茶でなく新茶として扱った。今は茶摘みもされないお茶の木が伸び放題になり、初冬になるとサザンカと見間違うほど白い花が目立ってくる。

てむぐり

手潜り
地域を取り巻く様々な生活

寝冷えを防ぐ腹巻きではない。巡回してくる馬買いの博労(ばくろう)が腹に巻いていたもので、現金が入っているもののこと。ふうてんの寅次郎がしているものと同じである。田舎では多額の現金を目にするのは煙草の納付の時ぐらいであったから、博労に現金を見せられれば誰でも心が動く。農家の人たちの弱みを握って、とんこめ(当年の馬:子馬)を言い値で買っていった。現金が見える胴巻きは博労にとって不可欠なものであった。

どうまき

胴巻き
地域を取り巻く様々な生活

カチカチになった身欠きニシンを米の磨ぎ汁で灰汁抜きをして、白湯で煮てから小さく切って味噌とともに油で炒めた。灰汁抜きをしないと渋い鰊味噌になる。味噌の中に砂糖が入っていれば、御飯のおかずでなくて、鰊味噌そのままで食べることが出来た。ニシンは田植え時期の畦で食う小時飯は、ゼンマイやタケノコの入った煮物もあって、格別の御馳走だった。なお、八溝では、ニシンは身欠きニシンのこと、カドは生のもので、時にカドの子が入っていたりしたものを言う。町に行った折りに、鮮魚店で干物でないカドを買ってきた。美味しくて、焼いたものを細かい骨まで食べた。八溝地区の戦後の魚の代表はカチカチのニシンであった。

にしんみそ

鰊味噌
地域を取り巻く様々な生活

水が堤防を乗り越えること。家のすぐ傍を川が流れ、川とともに生活をしていた。夜は川のせせらぎを聞きながら寝て、洗い物も川でし、一日の仕事を終えた馬の背を洗うのも川であった。日ごろは小さな清流であったが、ひとたび大水が出ると未整備な土の堤防を「のっこし」て田畑を押し流した。今では両岸がブロックで積み上げられ、堀割のようになり、瀞場(とろば)もなく、一直線に流れ落ちていく。「のっこす」ことはなくなったが、川は生活と切り離されてしまった。

のっこす

乗っ越す
地域を取り巻く様々な生活

「あくごや」とも言った。夜中に鳴るサイレンが谷間にこだまするのを聞き、怖いもの見たさに炎が闇夜を照らす方角に走って火事現場に行ったこともある。火事の原因の一つに取り灰の不始末があった。酸性の土地を中和するため、かまどやお風呂の焼却灰は不可欠であった。屋敷の一隅に木灰を溜めておく置く所があったが、冬の乾燥時期には北風が吹き、少しでも火の気があると「ふったかり(発火し)」、藁などに飛び火した。火事の防止のため、大谷石で半畳ほどの灰小屋が作られるようになった。
その後生活が変わり、灰が出なくなり、中和にも石灰が使われるようになり、灰小屋は不要になった。今でも屋敷の片隅に残っている農家がある。

はいごや

灰小屋
地域を取り巻く様々な生活

葉煙草納付前の仕上げの作業。一枚ずつ品質を選別して 枚ずつまとめて藁で束ねること。ばあちゃんの熟練のいる作業であった。

はわけ

葉分け
地域を取り巻く様々な生活

橇道(そりみち)に敷く横木。昭和30年代の初めまでは、山で伐採した杉や桧の丸太は、往還(県道)脇にある土場(どば:丸太の集積所)までは橇で運ばれた。谷筋の橇道には雑木で作られた「番木」が敷き並べられ、橇の幅に潤滑油の廃油が塗られて滑りを良くした。谷を渡る時には桟橋を架けた。カーブを曲がる時の力の入れ具合など、熟練のいる仕事であった。子どもたちにとって橇道の桟橋の上を歩くのはちょっとした冒険であった。

ばんぎ

番木
地域を取り巻く様々な生活

機械などが壊れて動かなくなること。特に老朽化したものがダメになることに使う。「バイクが途中でぱだぐれっちゃってひでめついた(バイクが途中で故障してひどい目にあった)」いう。このバイクは中古(ちゅうぶる)で買ったものかも知れない。新品が動かなくなったら「ぱたぐれる」とは言わなかった。人もまた、老齢になって使い物にならないと「ぱたぐれる」ことになる。

ぱたぐれる

地域を取り巻く様々な生活

「空(す)く」は腹が空くなどと同じで、空間が出来ること。水を張ってない桶は、板が乾燥して、間に隙間が出来てしまう。「1年使わながったら、桶がひすきっちゃた」ということになり、もう一度水を張り直し、少しずつ「すき」を無くしていく。今は日常的に木製の桶や樽を使う生活が無くなり、「すきる」という言葉も不要になった。納屋の2階には「ひすき」たうえに、箍(たが)の外れた桶が残っている。

ひすきる

地域を取り巻く様々な生活

強くしごくこと。「稲こき」は、脱穀機がない頃、千歯扱きなどで力を入れてもぎ取るように籾(もみ)を落とすことからが語源である。鳥かごを作る時の竹籤(たけひご)も、穴に通して力を入れて「ひっこい」て同じ太さに揃える(穴に通す道具は何と言ったか覚えていない)。「ひっこく」という行為が様々な場面で行われた。

ひっこく

引き扱く
地域を取り巻く様々な生活

背中で背負う一回分の量。「一背」「二背」と言ったが、それ以上の数には使わなかったから、 数詞のようには使わなかったと思われる。せいぜい「二背」までであった。馬を飼う農家では朝露のあるうちの方が鎌が切れるので、朝飯前に「朝草一背も刈ってくっぺ」と飼葉刈りに出かけた。

ひとせ

一背
地域を取り巻く様々な生活

八溝地区は烏山和紙の原料の楮(こうぞ)の供給地で、冬場における年寄りの現金収入であった。楮は畑に植えるのでなく、土手の斜面にあり、根刈りしても桑と同様一年ごとに伸びてくる。刈り取ったものを同じ長さに切って釜で茹で、柔らかくなった皮を木質部から外し、水に漬けておく。さらに白い繊維質から表皮の黒い部分をそぎ落とす。この作業を「ひょうひとり」と言った。風の当たらない日向で、小さな包丁を使って一枚一枚きれいにしていくことは根気の要る仕事であった。婆ちゃんの「ほまちかせぎ」である。今では烏山和紙の原料が、同じ八溝でも茨城県産になってしまっている。

ひょうひとり

表皮取り
地域を取り巻く様々な生活

古い標準語である。水が干からびること。「しばらぐ雨がふんねんで川の水が干ちゃったぞ(しばらく雨が降らないので、川の水が少なくなってしまったぞ)」ということになる。子どもにとっては、魚が1か所に集まるので、川遊びには好都合であった。ただ、畑も干上がり、葉がよれよれになってしまって、作物にも影響する。バケツで一畝ずつ水を掛けなけなければならないのは、畑作地の宿命であった。

ひる

干る
地域を取り巻く様々な生活

力を込めて引き出すこと。馬屋から馬を戸外に出す時には、手綱を引いて「ひん出す」という。轡(くつわ)を食わせ、勢いよく引っ張って出すので、接頭語「ひん」で意味を強める。「ひん」は、ひん曲げる、ひんむくなど様々な場面で使う。力仕事をする人たちにとっては大切な言葉である。

ひんだす

引き出す
地域を取り巻く様々な生活

「むしる」は方言ではない。強く引き抜くという意味で、さらに接頭語の働きの「ひん」を付けることで意味を強める。今は学校では校庭の除草作業と言い、また草取りという。別に草引きともいう。しかし、石の多い山間の畑では、少しくらいでは草が抜けない。力を入れて「むしり」取らことになる。特に春から夏の草が「ほきる」ころには、草と戦いが続く。腰を曲げ膝をつきながら作物の間の畝の中を這うようにして草を「ひんむしる」のは根気の要る仕事であった。また、お子守りは赤ん坊に髪の毛を「ひんむし」られないように、手拭いで髪を包んで額の所で縛っていた。子守りの定番の恰好であった。

ひんむしる

ひん毟る
地域を取り巻く様々な生活

ストレスが溜まり、馬が足を高くあげて足掻(あが)くこと。外に出さずに馬小屋に入れたままにすると、広い戸外で運動させろとばかり「びらっぱね」をして訴える。子どもたちも雨が続いて外に出られないでいると、家の中で「びらっぱね」して、障子を破いてしまうこともあった。

びらっぱね

地域を取り巻く様々な生活

不成就日(ふじょうじゅにち)とも。婆ちゃんはいつもお寺からもらう暦をめくって、農事の善し悪しを決めていた。特に種まきは不塾日を外し、一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)を選んだ。今でも「神宮暦」などが配られるが、詳しく調べることもない。農事のスケジュールより、会社の休みなどに合わせるから、「不熟日」も関係なくなった。

ふじゅくにち

不熟日
地域を取り巻く様々な生活

小麦を粉に挽いた際に残る屑。馬の餌として大事な栄養源であった。小麦を収穫すると、屋号が「くるま」という名前の水車に持って行って粉に碾(ひ)いてもらった。その時の小麦滓(かす)が麬(ふすま)である。茶色の小麦の皮に白い粉が混じった物で、切り藁に混ぜて与えた。栄養価の高い馬の餌として大切なものであった。かつては県境の峠には馬車を牽く馬のために「ふすま」を商う店があったという。

ふすま

地域を取り巻く様々な生活

潜ませる、あるいは横にするなどと語源は同じであろう。土の中に入れて、イモや根菜、球根類などを保存すること。さらには水道管なども地中に伏せることになる。土をかぶせて見えなくすることで、いずれも共通する。

ふせる

伏せる
地域を取り巻く様々な生活

ただ縛ることでなく、接頭語が付いた分、しっかりほどけないように縛り付けることを表現する。中でも米俵を縛るのはしっかりと「ふんじばら」ないと、供出出来ない。手と足を使って俵を回しながら絞り上げるようにして「ふんじば」った。間近で大人たちの見事な手足さばき方を見、さらに、60キロの俵を軽々と担ぎ上げて農協の倉庫に積み上げていく様子を見て、この土地で生活する者は誰もが大人になればこうして俵と付き合うのかと自覚した。今は半分の30キロの紙袋になり、「ふんじばる」必要がなくなった。

ふんじばる

踏ん縛る
地域を取り巻く様々な生活

そっくりであること、よく似ていること。型にはめて同じものを作ることから、「そっくりそのまま」という意味になり、よく似ているという意味になったのだろう。「まさか親子だからぶんぬきだね(さすが親子だからそっくりだね)」と使う。若い世代では標準語の「そっくり」になったが、「ぶんぬき」の方が似ているう感じが出る。

ぶんぬき

ぶち抜き
地域を取り巻く様々な生活

勢いよくばらまくこと。広辞苑には「撒く」に「ばらまく」こととの意味が載っている。接頭語「ぶん」を付けることで、力を込めてばらまくことである。「バケツの雑巾水をぶんまけろ」と言われれば、庭先に勢いばかりでなく、広がるように投げ捨てる。接頭語の「ぶん」は、農作業など力仕事をする八溝の人たちにとって必須の言葉である。

ぶんまける

地域を取り巻く様々な生活

どの家にも、畑にならない斜面などにはお茶ぼら(株が集まっている所)があった。茶を摘む日はあらかじめ決めておき、組で1軒だけ焙炉を持っている我が家で製茶した。季節になると毎日のように人が集まってきた。ちょっと誇らしかったが、接待する母親が大変であったと、今になって気がつく。茶摘みが始まる前には、炉の傷みを粘土で補強し、木の枠には烏山和紙を貼り替えて準備をした。今は焙炉はない。親戚が茶摘みはしてくれているが、製茶は茨城の工場に頼んでいる。焙炉を知る最後の世代になってしまった。

ほいろ

焙炉
地域を取り巻く様々な生活

乾燥した鰯や鰊などの肥料。鰯は国字で音読みがないので「ほしか」と読むのは当て字である。煙草は多肥作物なので、金肥の干鰯が房総や鹿島方面から大量に移入された。化学肥料が普及されるまでの戦後間もなくまでは「ほしか」がかますに入れられて、八溝にも運ばれた。間に入った町の肥料屋に儲けられることになり、不作のため土地を取られる農家も少なくなかった。「ほしか」は高齢者にはまだ生きている言葉である。干鰯で出汁(だし)を取ったものは「干鰯汁」である。

ほしか

干鰯
地域を取り巻く様々な生活

広辞苑に「帆待ち」も「外待ち」も当て字とある。隠れての本業以外の儲け、あるいはへそくりという意味が掲載されている。しかし、八溝では隠すべきものでなく、むしろ明確に「ほまちかせぎ」として、農閑期の余業として、土木作業などに従事して手間取りすることに使う。子どもも休業日には家の手伝いや炭俵運びなどをして「ほまぢ稼ぎ」をして、遊び道具を買ったりした。今「ほまぢ」の代わりにどんな言葉があるのだろうか。アルバイトでは何とも落ち着かない。

ほまぢ

帆待ち
地域を取り巻く様々な生活

子どもの頃は意味も漢字も分からなかったが、後年、「奉公人」であることが分かった。近所の子が住み込みで働き、学校に通い、中学を卒業しても20歳ぐらいまではそのまま家に残っていた。お礼奉公である。20歳を過ぎて婿に行くものもいたし、東京に就職をして、後年財をなし、錦を飾って町に工場建てた人もいた。それに対して、土地があるばかりに家を出られなかった人は、山間の限界集落の中での生活を強いられている。「ほうごにん」も死語となってしまった。

ほーごにん

奉公人
地域を取り巻く様々な生活

うどんの一塊にも使うし、藁を重ねたものも「ぼっち」という。盛り上がった形が共通している。山名にも「高ぼっち山」がある。秋の収穫が終わると藁を積んだ「わらぼっち」があちこちにできる。刈り取った稻藁は、縄や筵(むしろ)などにするために、程良く乾燥させなくてはならない。さらには馬の餌にもなる。藁は全く無駄にしないものであった。藁ぼっちが並んでいるところは北風の風除けにもなり子どもたちの遊び場でもあった。藁ぼっちは20年代から30年代の農村の原風景である。

ぼっち

地域を取り巻く様々な生活

八溝の子どもたちの「前掛け」は、「まえかけ」でなく「まいかけ」であった。製材所の職工さんが丸太を担ぐ時に使った物が印象に残っている。職工さんは膝までの長い前掛けを肩に当てて、重い丸太を丸鋸がうなる台まで運んだ。肩には担ぎだこが大きく盛り上がっていた。事故のため職工さんの中には手の指のない人もいた。昨今は藍染めの前掛けがファッションとなってエプロン代わりになっている。八溝の少年たちにとって、おが屑の臭いは甘く懐かしい忘れられない臭いである。

まいかけ

前掛け
地域を取り巻く様々な生活

飼い葉を入れる桶で、馬小屋の馬塞棒の前に提げて置いた。馬は腹が空くと前足で地面を蹴ったり、空の馬桶に首を入れて餌を催促する。農繁期になれば栄養を付けるため、ふすま(小麦を挽いた時のかす)を与えたりする。冬は「飼葉切り:押し切り)」で切った藁を与え、寒さが厳しくなれば、竃(かまど)に掛けた大釜で温めた「馬水(まのみず)を与えた。同じ家畜でも、山羊などとは全く違った付き合いをした。家族同然であった。

まおけ

馬桶
地域を取り巻く様々な生活

種を蒔くだけでなく、ジャガイモやサトイモを植え付けすることも「まぐ」という。漢字に充てれば「蒔く」とともに「撒く」も当てはまるのではないか。4月の末になると「ジャガイモまいだけ(ジャガイモの植え付けしたか)」と話題になる。同じ時期、野菜の種を蒔いたので、芋類の植え付けも、広い意味で「まぐ」になったのであろうか。

まぐ

蒔く
地域を取り巻く様々な生活

片付けをすること。家事での「洗いまで」は主婦の仕事でも、水瓶(みずがめ)の水を使い、寒い中で裸電球の下では大変辛いことであったろう。農作業でも、秋の収穫での片付けは「秋まで」であり、農具などの収納も終えると、農作業も一段落である。別に「までに」と副詞的用法があり、「までにやる」は、丁寧にやることである。

までる

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「丸く」と関わるか。稲の束など「まるぐ」というが、片手で持てるほどの束にするのは「しばる」と言い、その束ねたものを10束ほどにひとまとめに束ねることを「まるぐ」と言った。粗朶(そだ)や茅などを大きな束にまとめることも「まるぐ」である。

まるぐ

地域を取り巻く様々な生活

馬耕の際に馬の鼻を取る「はなどり」に対して鋤(すき)を持つ人。まんがは馬鍬(まぐわ)の転。「まんぐわとり」は熟練した大人がやったが、「はなどり」は中学生でも出来た。昭和30年代半ばには耕耘機が普及し、馬を飼う農家が激減、馬鍬も必要としなくなり、「鼻取り」もなくなったし、「まんがんとり」もなくなった。私は「まんがんとり」はしなかったが、最後の「鼻取り」で世代であろう。

まんが(ん)とり

馬鍬とり
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標準語では「馬塞棒(ませんぼう)である。馬は牛と違って、背の所に棒が当たれば下をくぐって外に出ることをしない。飼葉を食う時も棒の上から顔を出していたから、「まーせんぼー」は1本で用が足りた。厳しく叱られる時の言葉は「まーせんぼくらすぞ」であった。馬塞ん棒で叩かれたら大変なことになる。

まーせんぼー

馬塞ん棒
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目籠(めかご)が「めかい」となり、さらに転訛して「めけー」となる。広辞苑には、目の粗い籠とある。六つ目編みで、模様も美しい。大きさも手で持つのにちょうどよく、土の付いたジャガイモなどを入れると土が外に落ちるので使い勝手が良かった。水切りも良く、もっとも日常的な籠であった。今はカラフルなプラスチックの容器になってしまっているが、どこか落ち着かない。

めけー

目籠
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「もじる」は、ねじることで、古典にも出てくる。広く綯(な)うとも言い、「縄綯い」という言葉がある。農家では「もじる」といえば「縄もじり」である。藁縄(わらなわ)は農村の生活になくてはならないもので、俵、菰(こも)、筵(むしろ)などすべて縄がなくては出来ない。どこの農家でも夜割り(夜なべ)には縄もじりをした。選(すぐ)った藁を数本ずつ手のひらで回すようにし、「もじり」ながら尻の下を通して伸ばしていく。一晩のどれほどの縄がもじれたのであろうか。やがて、足踏みの「縄もじり器械」が導入され、手で「縄もじり」をしないでも済むようになった。

もじる

捩る
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製茶で生茶を揉んだり、肩を揉んだり、祭りで御輿を揉んだりと様々使うが、竹の「節を揉む」ことにも使う。竿として使用するためには、枝を払い、節の部分の出っ張りをきれいにしなくてはならない。鉈(なた)を使って「揉む」作業である。竹を手の平で持って、回転することから「揉む」ことに繋がったのだろうか。竹は生活の隅々に至るまで活用されていたから、「揉む」という作業も欠かせなかった。

もむ

揉む
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中国伝来の作物であることからの命名であろう。トウモロコシとは違う。粟などとと雑穀の一つで、米が不足していた戦後しばらくは栽培されていた。日照りに強いことから傾斜地でも耕作可能であった。穂刈であったので、藁で縛って軒下の竹竿にぶら下げて乾燥し、天気の良い日に、さい突き棒で叩いて脱穀した。石臼でひいて粉にして団子にしたが、美味しいものではなかった。婆ちゃんが農業から引退してからは作られなくなった。

もろこし

唐土
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畑作地では畑のことを山という。田は「たんぼ」であった。「父ちゃんはどこ行ってんだい」と聞けば「やま行ってるよ」と言う。父ちゃんは畑仕事に行っているのである。山間地の耕地は畑作が主で、その畑も多くは傾斜地で、文字どおり「やま」であった。今は耕作放棄地となり、元の山に帰ってしまった。

やま

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20年代から30年代にかけて、集落の中心にあった害虫を集める装置。青い光源とその下の石油を入れたブリキの大きな器があった。持ち回りの誘蛾灯当番があり、毎日水を交換し、新しく石油を薄く浮かべる。石油がどのような役割をしていたかは知らないままである。交換に行くと害虫がたくさん入っていて、まだ生きていたカブトムシやオニムシ(クワガタ)もいたが、特に関心はなかった。その後農薬が普及し誘蛾灯の役割も終えた。しかし、農薬のために、害虫は減ったが、蝉なども少なくなり、川の魚も急激に減ってしまった。

ゆうがとう

誘蛾灯
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負んぶ紐のこと。「結う」と「帯」が合わさったものだろうが、どのような音韻変化をしたか。今の負んぶ紐は、赤ん坊の背中全体がカバーされ、首が安定する支えも付いる。以前の帯は一本の帯であった。背中の子どもは、時に片方の腕が外れてしまったり、首が折れてしまうのではないかと思うほど、後ろに曲がっていた。母親は、農作業や炊事で両手を使う必要があるから、背に負ぶう必要があった。また、兄姉が自分の弟妹を負ぶうことも珍しくなく、背丈があまり変わらないから、負ぶっている子の足が自分の膝の後ろに当たることもあった。こうして体温を感じ合う中で、肉親の絆が生まれたのであろう。「ゆつこび」も4人目の末子(ばっし:八溝ではばっち)の頃にはひどく痛んでしまっていた。

ゆつこび

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端のことをいうが、主に田の畦(あぜ)のことに多く使っていた。ただ、「掘ったさづま(サツマイモ)畑のよせに並べておげ」というから、必ずしも田の畦とは限らない。夏になれば、田の畦の雑草を刈る「よせ刈り」は朝飯前の「朝草刈り」である。馬を飼っていたから飼葉(かいば)は不可欠であった。

よせ

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寄せ豆腐の語源ともなている「豆腐よせる」と言い、 農作業の「土寄せ」にもつながる。標準語にない使い方として、農家では「そろそろネギ寄せすっか」と言って、ネギの植え替えをする。標準語では「寄せる」は一か所に集める意味であるが、逆に間隔を広げて、成長を促す作業である。

よせる

寄せる
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夜鍋仕事のことである。夜鍋は文字通り夜食のことを指したが、夜割と言えば夜に割り当てられた厳しい仕事という感じがする。夏の土用も過ぎて、涼しさが増し、日が少しずつ短くなると、そろそろ「よわり」が始まる。秋の収穫期を迎えて、土間の裸電球の下で、俵造り、縄もじりなど、昼には出来ない「よーわり」仕事がいくらでもあった。中でもタバコ農家は葉の選別やタバコ伸しが本格化する。子供もタバコ伸しを手伝った。ラジオから「母さんの歌」が聞こえ、「よなべして」とあり、「よーわり」よりも高級に聞こえたが、漢字に置き換えれば、「よなべ」という食べ物由来よりも、「よーわり」の方がずっと上品である。

よ(う)わり

夜割
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煙草の乾燥法で、葉を取らず幹ごと室内に干す「幹干し」に対して、1枚ずつ縄に挟んで天日で干すやり方、葉を連ねることが語源であろう。縄の撚(よ)る方向と反対に緩めて挟んでは戻しながら一枚一枚挟んで、乾燥場(かんそば)に続く庭先の竹で作った「はって」に掛ける。青から茶に変わるころには、庭先に干す「地干し」をして仕上げていく。この時は必ず縄の両端を二人で持ち、タイミングを合わせて葉先を重ねるようにして並べる。子どもも大事な働き手になり、夏休みの大事な仕事であった。江戸時代から煙草が主な産物であった八溝の山間で育ったから、煙草の栽培に関しての用語はたくさん覚えた。

れんぼし

連干し
地域を取り巻く様々な生活

道の分岐点ではない。本家に対して、分家筋のことで、新宅あるいは新屋という。血縁関係であることから結びつきが強く、それぞれ血縁集団の「まけ」の付き合いは、隣組とは違ったもので、村落の核ともなる集団である。今では分家して代替わりをして時間が経ち、墓地や氏神様は一緒だが、次第に繋がりが薄れている。さらに、本家は農地解放で土地を失い、時代に対応しきれず、かえって身軽な分家の方が豊かになっている例が多い。また、本家は子ども教育に熱心であったから、長男が家に帰らず、家が無人となり、新宅や隠居の「わかされ」だけが残っている集落もある。

わかされ

分かされ
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藁しべのこと。「しべ」は屑藁のことで、実を落とした後の穂の部分。農家にとって藁は貴重であったから、「わらっちび」も無駄にしなかった。子どもたちは「わらっちび」で遊ぶと、後でちくちく(のがっぽい)してひどかった。今はコンバインで田んぼで脱穀かでするから、「わらっちび」ばかりでなく藁そのものも裁断され、やがて田んぼに鋤込まれてしまう。それだけに藁を使う必要がなくなったのである。

わらっちび

藁橤
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