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44 家畜とともに

10人の家族の他に、多くの家畜とともに暮らしていました。家族同様の生き物が子どもの成長に大きな影響を与えたのは言うまでもありません。生き物とは必ず別れもあります。分かれをとおして学ぶこともたくさんありました。
『とんこめ』 「当年子」の転訛で、生まれて1年目の馬です。馬は耕作や運搬、厩肥を採るために不可欠でした。子を生ませて馬市に出して収入源にしました。春に生まれた子馬は自分より年下の弟妹のような感じで成長を楽しみにしていました。しかし、半年ほど経った初冬になると、馬頭の町で馬市が開かれ、競りに掛けられます。爺ちゃんに引かれた母馬の背に乗っての2里の道のりは「とんこめ」と一緒に過ごす最後の日です。馬市で子を離された母馬は大暴れします。帰路は母馬の背で、家族を失った寂しさを味わいました。昭和30年代になり、馬はいなくなり、馬屋は子ども部屋に改修されました。
『やぎめ』 山羊は気が強くて、小屋の板を角や頭で突き立て、気に入らないと人にも突っ掛けてくることもあります。雑草をきれいにしてくれるので、場所を移動しながら土手に杭を打って繋いでおきました。夕方になると小屋に連れ戻し、暴れないように両足を杭に縛り、搾乳します。親指と人指しから順に小指の方に力を入れてバケツに音がするように絞ります。搾った乳は必要とする赤ちゃんのいる家に毎日届けました。
『めんよう』 ヒツジを「めんよう:緬羊」と言っていました。昭和20年代まで、近所では珍しい緬羊を飼っていました。山羊と違って大人しく、よく馴れました。春先に庭で、大きなハサミを使って毛刈りをし、刈った毛は町で毛糸にしてもらいました。毛糸は交差したループ状なっていたので、球状に巻き直すため、叔母のスピードに合わせ、両手首を交互に捻りながら少しずつ外して行きます。緬羊のお陰で、地域で一番先に純毛のセーターを着ることが出来ました。叔母が結婚して家から出て、その後安い化繊が出回り、いつの間にか緬羊はいなくなりました。
『とりめ』 ニワトリの種類は「コーチン」と言っていました。1羽のオンドリをリーダーにして数羽のメンドリが家の土間にも入り込み、足で「かっちらか(搔き散らかす)」しながら餌をあさり、夕方になると鳥小屋に戻ります。放し飼いでしたので、思わぬ時に納屋の方からヒヨコを連れて庭に出てくることもありました。卵を生さなくなった「ふるっぱ(古っ羽)はお祭りの時の御馳走になります。「とりめ」のいる庭は家の風景の一部でした。
『こいめ』 小さな沢の扇状地の扇端にあり、年間を通して枯れることのない湧水に恵まれていました。飲料水の他に、食器や鍋釜の洗い物をする「せんすい(泉水:池)」があり、たくさんの鯉がいました。人が近づくと洗い場の方に重なりながら集まって来て、手で触ることも出来ました。食事の残りなどを食べて、特に餌を与えることはありませんでした。無人となって久しくなりますが、今でも足音が近づくと寄ってきます。昔から生き残っている唯一の生き物です。

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