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40 山とともに

「夕焼け小焼け」の歌で夕焼けという言葉は知っていましたが、谷あいの集落では日が早く沈み、夕焼けを体験できませんでした。外に向かっての知識は限られていたものの、仕事や遊びをとおして山で学んだ体験は、その後の生き方の土台になっています。
『とやっぺ』 語源は「鳥屋っ辺」です。鳥屋は小鳥を捕獲するための待ち伏せする小屋のことで、山に設けられたので山頂の意味にもなりました。メジロは暖地に渡る途中、高い山を目印に集団で飛来します。冬の早朝、先輩たちから受け継いだ「とやっぺ」に行き、鳴き声の良い囮(おとり)で誘い、ノデンボ(ヌルデ:ウルシの仲間)に鳥餅を巻いて待ちます。掛かったメジロは暴れないよう風呂敷を掛けた籠に入れて持ち帰りますが、学校に行っても気が気ではありません。餌はサツマイモだけで、よく馴れた春先には栄養不足になり、ぶ-ぶぐれ(元気をなくし膨らむ)て死んでしまいました。
『しろ』 『広辞苑』には「茸(きのこ)の代」とあります。婆ちゃんは同じ集落内での結婚でしたから、真夏はチタケ、秋にはイッポンシメジ、センボンカブなど、茸が出る場所を熟知していました。秘密の場所をなんとか孫に伝えようと、しばしば山に連れて行ってくれました。「よぐ見でるつーど、キノゴの方がら目に入って来んだぞ」と言われましたが、うすうす(あちこち)歩くばがりで、集中力がない性格のため期待には応えられませんでした。今は雑木山が薪炭にもならず、荒れ放題になり、シロも無くなってしまいました。
『教材費稼ぎ』 春にはタケノコの皮を集め、丸まらないように広げて干し、束ねて学校に持って行きました。夏休みにトウヤク採りの課題があり、日当たりの良い山道の脇にあるのを知っていましたので、友達よりは多く採り、新学期には誇らし気に持って行きました。晩秋にはイナゴを捕って、生きたまま学校に持って行きました。財力が乏しかった当時の小さな村の先生の苦労が、今頃になってよく理解できるようになりました。トウヤクもイナゴも少なくなりました。
『炭運び』 冬になると炭焼きさんが巡回して山に入ります。炭窯は雑木林のある場所に構え、寝泊まりする小屋も掛けます。小学生の上級学年になると、炭俵2俵を背負梯子(しょいばしご)に附けて、1キロ以上の山道を下の道路まで背負下(しょいおろ)します。炭焼きさんからお金がもらえることが喜びで、何往復もしました。ひと山を焼き終えると別の場所に移っていき、小遣い稼ぎも終わってしまいます。今でも所々に炭窯跡の窪地が残っています。
『開墾地』 戦中から戦後にかけての食糧難を解消するため、政策として国有林の払い下げが行われ、地域の人たちによる開墾が行われました。集落から山道を20分以上かけて登った南斜面を開き、自宅から堆肥を運びサツマイモやアズキなどの雑穀を作付けしました。往復の上り下りの時間を節約するための寝泊まり小屋があり、爺ちゃんと一緒に泊まり、沢の水を汲みに行く仕事をさせられました。戦後10年ほど経って、食糧事情が好転し、開墾地は放置され再び山林に帰りました。僅かな間でしたが、開墾地での生活を知る最後の世代です。

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