
39 共同社会と信仰

祭礼をとおして集落では紐帯を深めながら生活を維持してきました。しかし、産業構造の変化に伴う急激な過疎化により、兼業農家が増え、夜勤などの職種の違いから地域の人たちの生活や意識も大きく変わり、祭礼も維持されなくなっています。
『おごしんさま』 集落全体で庚申(こうしん)講を結成し、「庚申(かのえさる)」の日、床の間に猿田彦の「おかげじ(お掛け軸)」を飾り、当番の宿(やど)に男たちが集まりました。夜に悪事を働く邪鬼の活動を止めるため、夜遅くまで酒宴を開きます。60日に1度回って来ますが、年7回ある「七庚申」の年は「塚丸め」として塚を築きます。次第に年1度の「仕舞い庚申」だけになり、今は全く開かれません。「おかげじ」もどこかの家に留まったきりです。
『おひまじ』 「お日待ち」のことで、一般には日待ち講として特定の日に農事を休み、地域の人たちが共食する日です。子どもの頃は「お暇じ」と思っていたのは、田植えや秋の収穫が終わった後に行われたためです。「おごしんさま」と違ってこの日は女たちも参加しました。当番の宿になった家の若い嫁様は、年寄り婆さんから地域のしきたりや料理を仕込まれる日ですから、気が休まりませんでした。「三夜様」という月待ち講もあり、こちらは旧の二十三日の夜に女達だけが集まりました。男でも孫は参加自由で、「ごっつぉー(御馳走)」が食べられました。
『あきまで』 煙草の納付も済ませ、農具の片付けが終わると一段落です。この頃に、結いをした人たちで収穫の祝いの「秋まで」をします。「まてる」は片付けることで、家事での洗い物は「洗いまで」です。「あきまで」には、同じ氏神様を祀る家が集まり、集団の絆を強めます。大事な日でしたが、農機具が普及し、結いの必要もなくなり、「あきまで」が無くなりました。
『おわだごさん』 火防(ひぶせ)の神である京都に本社のある愛宕神社の分霊で、地域の集落でお祀りしている小さなお社です。大正初年には谷筋の村が北風に煽られてで大火となったこともあり、火防には強い関心があり、昭和30年代までは農事を休み赤飯を炊いてお社にお供えをしました。新しいお札はカマドの近くの柱に貼り付けておきました。
『まいひめさま』 「舞姫様」のことで、地域の氏神として祀られていました。江戸時代から、13軒の小さな集落に人形浄瑠璃が伝わり、各地の祭礼などに出向いて興行していたと伝えられています。大正期の大火の際に人形など諸道具を焼失してしまい、伝承が途切れてしまいました。それでも、子どもの頃までは境内に地域の人が集まって宴を開いていました。今はお社も朽ちて山になっています。『馬頭町史』に「加倉組の人形浄瑠璃」として載っていますが、地区の人たちの記憶からも消え去ろうとしています。
『おがまさま』 子どもの頃はカマドと結びつきませんでした。オガマ様には火防の祈願だけでなく、神様と供に食事をすることで豊作の祈願をしました。2月の14日に小豆粥を炊き、神様も使えるように、両端を細くしたノデンボウ(ヌルデ)の孕み箸を作ってお供えします。真ん中が太いのは豊穣の祈願です。暗いところにいるカマドノの神を大事にしました。