38 祝儀と不祝儀
明治維新や太平洋戦争の敗戦による大きな変革期を経ても、村落共同体では江戸時代からの信仰を共有し、変わらぬ付き合いをしていました。しかし、昭和の40年代以降の社会変動により、祝儀や不祝儀など、人々の紐帯も失われ、かつてない激変の時代となりました。
『卵塔場』 「らんとば」と言っていました。卵形をした墓石のことから墓地を指すようになりました。私の集落では、埋葬する墓と違って石碑だけを建てる場所がありました。埋葬する「埋め墓」は各戸別々ですが、集落全体の石塔(石碑とは言いませんでした)を建てる「まつり墓」は、の集落が見渡せる高台にあり、故人の魂の集まる場所です。しかし、近年石塔を個人の墓に移すなどして、「らんとば」は墓薙ぎもされず、石塔も僅かになりました。何世紀にもわたって維持されてきた県内でも珍しい両墓制が崩壊しました。
『親仕舞い』 親の葬式のことを「親仕舞い」と言いました。故人の子どもたちは長男の喪主だけでなく、家を出た子どもたちもそれぞれ帳場を儲けましたから、会葬者はそれぞれ縁故のある人の帳場に行って帳付けをしてもらいました。喪主である長男の家での葬儀なので諸経費は喪主が払いますが、後に弟妹たちはそれ相応に謝礼をします。年寄りは経験から、「ジャーボの金ぐれはのごさねどみどもねがら(葬式の金くらいは残さないとみっともないから)」と、当座は立て替える長男に迷惑を掛けないために帆待ち(へそくり)をしていました。しばしば親の看取り方が悪かったり財産相続でもめていると、親仕舞いの時に表に出ました。今は葬儀場での親仕舞いになり、町場の人たちと同じく帳場は喪主だけになりました。親仕舞いは、男女の区別なくどの子にも親の霊を分けるという風習でした。
『じゃーぼ組』 死人が出ると班長さんに連絡をします。組内には何事にも詳しい人がいて差配をします。まず近隣の親戚には二人一組の「飛脚」が沙汰(連絡)をします。飛脚を迎える家では酒肴の膳を用意して迎えます。遠隔地には郵便局に行って電報を打ちます。その他、組内の人たちが埋葬許可書をもらい、お寺に連絡し、葬具の材料など町まで行って調達しまます。さらに、土葬の床掘りや松明、花籠作りもジャーボ組の仕事です。女達は当家に集まって、死人のカマドとは別にするため、外にカマドを造り、会葬者に振る舞ううどんを茹でたり白和えなどを作ります。葬儀が終わればお礼のお振る舞いです。これは当家が担いますから、家族を失った悲しみに浸っている暇はありません。「じゃーぼ」は長老からしきたりを学ぶ大事な場でした。廻り当番ではあっても、組内に差配する人と差配を受ける人が自然と別れました。
『屋普請』 耐久性に劣る麦わら葺きでしたから、15年もすると痛んで藁を押さえる竹の「おしぼこ」が露出してきます。屋根面積が広いため、半分ずつ年を隔てて葺き替えるので、屋根の残っている方に引っ越します。古い藁を取り除くなどの仕事はすべて組内総出で手伝いをします。屋根葺きは専門の茅手(かやで)が会津から泊まり込みでやって来ます。「ぐし」が葺き上がると、ぐしの両端に「水」と切り込みをして幣束を立て、餅を供え防火祈願の「ぐし祭」をしました。藁葺きからトタン屋根になり、屋普請もなくなりました。