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33 電気生活の変化

八溝東端は鬼怒川水系の送電系統から離れていたので、通電したのが遅い地区でした。そのうえにしばしば停電があり、夕食は松の根の油脂「ひで」の薄明かりで済ませることもありました。停電は宿題が出来なかった恰好の言い訳になりました。
『2燭』 燭の単位は昭和36年に廃止されました。燭はカンデラのことで、1燭は蝋燭1本の明るさです。ワット数にするとどの程度でしょうか。外便所は「2燭」の電球であったので、辛うじて足許が確認できる程度でした。「2燭」は便所の電球の代名詞でした。電球が切れると、中のフィラメントを見て回しながら、接続する工夫をしました。時に繫がることがありました。最近の電球の明るさはルーメンスと言い、買い方が分かりません。
『安全器』 古い家の柱には、煙ですすけた陶製の「安全器」が残っています。電気代を安くするため最低料金のアンペアで契約していましたから、過通電のためしばしばヒューズが飛びました。買い置きはないので、表箋(荷札)の細い針金を撚り合わせて代用したり、銅線そのものを利用したこともあり、「安全器」の役割を果たせませんでした。今はブレーカーが取り付けられ、「安全器」も死語となりました。
『スーパー5球』 戦後の10年間はラヂオ(ラジオ)の時代でした。子どもたちは夕方になると、ラジオドラマ「赤胴鈴之助」に聞き入りました。音声はムラガあり、波打つようでしたので耳を澄まして聞き入りました。やがてオンキョースーパー5球が入り、音質は格段によくなり、音量を上げても不快音になりません。ラジオの普及とともに、自分たちが使う八溝の言葉が東京の発音と違うことを強く意識させられました。オンキョースーパー5球の受信機は、今も宝物のようにインテリアとして家の中に鎮座しています。
『エルマンテレビ』 昭和28年にNHKのテレビの本放送が始まりました。父親が新しいものが好きであったことから、地域で一番先に4本足の「エルマンテレビ」を買いました。夕方は映画館のように人が集まり、特に金曜の夜のプロレスでは大人も子どもも力道山の活躍に一喜一憂しました。民放は映りが悪く、特に雨の日には、タバコのピースの包装用銀紙で平べったいフィーダー線を擦りながら移動すると映像が安定しました。エルマンは初めてのテレビの名前で鮮明に覚えていますが、その後名前は聞かなくなりました。
『電気ジャー』 炊飯装置のない保温専用のジャーが普及し、今まで冷や飯を強いられていた生活から、いつでも温かい御飯が食べられるようになりました。その後間もなく、生活改善運動が展開され、囲炉裏やカマドがなくなり、代わりに電気炊飯ジャーが使われ、誰が炊いても同じ御飯が出来るようになり、均一化した西洋料理が多くなりました。
『棒電器』 昭和20年代までは提灯が使われていました。その内に、単1電池が2本の「棒電器」が登場しました。ただ、電池がもったいないので余程でなければ使いませんでした。電池の品質が悪く、しばしば液漏れし、スイッチが動かなくなりました。

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