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29 婆ちゃんの帆待ち

明治20年代生まれの祖父母は、戦後になっても明治の生活ぶりをそのまま引き継いでいました。婆ちゃんの帆待ち稼ぎの手伝いながら「明治の体験」をすることが出来ました。帆待ちは余業やへそくりと解されますが、孫の小遣いにもなりました。
『表皮取り』 水戸藩は財政再建のため、特産の久慈川沿いの西ノ内和紙を専売としました。原料の「こうず:楮(こうぞ)」は、那須楮として主に藩内の八溝の山間で栽培されました。昭和30年頃までは伝統が伝えられていました。農閑期になると楮を刈り取り、押し切りを使って3尺ほどに切り揃え、大きな釜で茹でて、水に浸して木部から樹皮を剥がします。さらにザラザラした表皮を包丁で剥ぎ、刃の顎(手元に近い部分)を使って白い繊維部分だけにし、最後に乾燥して束ねます。根気のいる仕事でしたが、帆待ち稼ぎの代表でした。
『茶摘み』 茨城県の大子地方は最北限の茶の栽培地と言われています。同じく水戸藩領であったことから、当地区にも茶の栽培が早くに伝えられました。八十八夜の頃に一番茶を摘み、その後「てむぐり」という摘み残しを摘み、梅雨時の蒸し暑い頃には二番茶を摘みます。茶葉は蒸籠(せいろ)で蒸かし、烏山和紙の張られた1畳分の大きな焙炉(ほいろ)で揉みながら乾燥させます。組内で焙炉があるのは我が家だけでしたから、結いをしながら順番に製茶をしました。古木となった茶畑は今も健在で、親戚が茶摘みをしてくれています。
『干瓢剥き』 八溝ではユウガオという言葉はありませんでした。畑にある実も乾燥した食品も「かんぴょう」です。夏の晴れた朝、収穫してきた実を干瓢専用の大型包丁で輪切りにし、中の綿を取り除き、左手に持った小さな手鉋(てかんな)に押し当て、右手で外側に押しつけながら回すと指の間から細い帯が出てきます。乾燥させ、ブリキ缶で保存し、かんぴょう巻きにしたり、野菜がなくなった頃の汁の実にもしました。
『畔豆(くろまめ)』 大豆は自家製の納豆や味噌の原料、呉汁など様々な食べ物となり、節分の豆まきにも使いました。大豆は田の畔(くろ)を利用し、根粒バクテリアの助けを借りて無肥料で栽培します。田植えの後、お寺からもらった暦で一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)を確認し、畔に棒で穴を開けて種を蒔きました。収穫は多くはありませんでしたが、狭い耕地の有効利用と根粒バクテリアが田の稲のためにも役立つという両得の知恵でした。今は草刈り機を使い、トラクターが通るので畔豆は作れません。
『トウヤク』 トウヤクは「当薬」の字を当て、直ぐに効くからと言われています。植物名はセンブリで、何度煮出しても苦みが残ることからの命名です。トウヤクの花が咲くころ、山で採集し、根を洗って藁で編んで軒下に掛けて乾燥させました。婆ちゃんも鉄瓶で煮出して飲んでいましたが、残りは顔見知りの古物屋が買っていきました。
『おごさま』 蚕に敬称を付けて「おごさま」と言っていました。座敷で桑の葉を食べる「わしゃわしゃ」という音の中で寝起きしました。早い時期に養蚕はやらなくなりましたが、綿は戦後の輸入自由化前まで栽培していて、今も種取り器が残っています。現金収入の少ない八溝では出費を抑えるため、食ばかりでなく、衣生活も自給自足に徹していました。

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