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18 我が家の食生活 その2

田んぼが少なく、畑作中心であったことから、農家でも買米をしなくてはなりません。いかに米を少なくするかは家事担当の母ちゃんの役割です。どの家も同じようなものでしたから、特に自分だけ我慢しているという意識はありませんでした。
『焼き付き』 麦飯で麦の割合は米よりも麦の割合が多いのも当たり前です。丸麦は前日に水に漬けて囲炉裏に掛けて「いまし」ておきます。米と一緒に炊くと軽い麦は上層になるので、お弁当は下の方の米の部分を使いました。残りは麦ばかりを食べる感じになり、特に冷めると麦の臭いがしました。そんな中、釜の底に付いている「焼き付き」は米だけですから、少々の焦げでも噛んでいると米の味がして、おかずなしでも食べられました。
『小豆飯』 古代の日本は赤米を主食にしていたとも言われます。事日(ことび:神ごと)の日など岩井の日は、今でも糯米(もちごめ)に小豆を入れて蒸かす「おこわ」はその名残でしょう。しかし、田の少ない八溝では糯米の代わりに陸稲の粳米(うるちまい)に小豆を加えた小豆飯を炊きました。新小豆が出来た旧暦の9月29日の「末のくんち(九日)」は小豆の煮汁を一緒にして炊いた小豆飯で祝いました。麦飯でない「ハレの日」のおいしい食べ物でした。
『粟餅』 明治20年代生まれの婆ちゃんは、古い八溝の生活を継承し、救荒作物として粟を栽培していました。穂先50㌢ほどを穂刈りにし、軒下の竹竿に干し、良く乾いた後に「さい突き棒:木槌」で脱穀し、手箕(てみ)で選別し、最後は目の細かい篩(ふるい)で皮などを除けます。正月に一臼だけ粟餅を搗いたのは昔の名残と思われます。粟だけでなく糯米(もちごめ)も少し混ぜたと思いますが割合は分かりません。搗き立ては糯米とは違った味わいがありますが、翌日にはひび割れ起こり焼いても膨らみません。婆ちゃんが農業から退くと粟の栽培はなくなり、粟餅も無くなりました。懐かしい味です。
『溶き納豆』 八溝では冬限定で、自分の家で納豆を作りました。我が家の納豆は「地納豆」で、庭先に穴を掘って寝かせました。穴の中で火を燃やして地面を温めてから「藁つと」にくるんだ煮豆に被せておけば3日ほどで出来上がります。自然発酵の納豆は藁に付着している納豆菌ですから、藁の臭いがほのかに残り、本当の納豆の味がしました。納豆の量を増やすため一夜干しの大根を戻して溶いたので水っぽい納豆になりました。「溶き納豆」の名前の由来です。干し納豆も作り、ブリキ缶に入れて保存します。お茶請けにしたり、温かい御飯に混ぜて食べました。
『ざく煮』 ざくざく切ることからの命名です。里芋や大根など根菜類を角のできるように回しながら大きく切って、その中に自家製のコンニャクを入れて醤油で味付けしたものす。大きなこぶ(昆布)や身欠き鰊が入っていることもありました。「おごしんさま(庚申様)」など、集落の集まりには必ず大皿に盛られて出されました。回り番で回ってくる宿(やど)になった母ちゃんの腕の見せ所です。最近はお袋の味として料理屋でも出てきます。
『ごろた煮』 ゴロタは丸太のことで五郎太の漢字を当てます。イモ類を丸のまま皮付きで煮ることから「五郎太煮」と言ったものです。温かいジャガイモの皮を剥きながら塩を付け、胸焼けするほど食べました。ジャガイモの印象が強く残っていますが、サトイモを皮付きのまま煮ることもゴロタ煮と言ったかどうか定かではありません。

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