top of page

17 我が家の食生活 その1

畑作中心の八溝の山間の村では、本流に流れ込む小さな沢筋にぬかりっ田(湿田)があるだけで、米を供出できる農家は限られていました。そのうえ厳しい食糧管理法により麦までも供出したので、都市部ばかりでなく農村も厳しい食糧事情下にありました。
『ふりめし』 米三割に麦七割も普通で、米一割の「振り飯」もありました。米をぱらぱらと入れる程度の麦飯のことです。米は自家消費にも不足する畑作地では、農家でも米を買って食うことから、事日(ことび:祭礼などの特別な日)以外は白米やモチ米を使うことはありません。戦後しばらくは麦類や雑穀まで食料統制下にあって、麦飯にサツマイモを入れる粮飯(かてめし)も珍しくありません。学校給食がなかったので、お弁当を持って来ない子は昼休みになると外に出て遊んでいました。今は健康のための麦飯が勧められていますが、昭和20年代の麦飯生活経験があり、食べる気になれません。
『おしる』 汁物のことですが、上品なお吸い物ではなく、具には自家製の根菜や葉物がたっぷり入っていました。おかずの足しにしまので「馬鹿の三杯汁」は当たり前でした。汁から先に飲むという食事作法は、おかずがいっぱいあり、薄塩の汁を飲む人たちの食生活から生まれたものです。今は塩分控え目で、お汁が出なくなり、何とも物足りません。
『およごし』 汚すという語はやや品に欠けるので「お」が付きました。胡麻の他に、クルミやジュウネ(荏胡麻のこと:十年の転訛か)などで、時々の野菜や山菜などと和えました。股の間に擂り鉢を挟んで擂粉木棒(すりこぎぼう)で胡麻摺りをしました。甘みを出すため玉砂糖を加えることがありましたが、塊を盗み食いするのが楽しみでした。
『さづま』 サツマイモのことで、子どもの頃の副食の中心はサヅマでした。中にはお弁当にサツマイモを持って来る子もいました。サツマイモの種類は太白(たいはく)と言い、蒸かして食べることもあり、御飯の粮(かて:不足を補う食材で「かで」)にもなり、干し芋にもしました。干し芋は一斗缶に入れて保存、副食の少なくなった冬に食べます。その頃にはカビのように糖分が吹き出していますが、囲炉裏で炙って食べるのが子どもたちの楽しみでした。今は黄色い紅こがねなどが主流になっています。
『こーご』 香香の転訛、今は「お新香(おしんこ)」といっています。漬け物の中でも、白菜の真ん中の黄色い部分は甘くて、海苔巻きのようにして御飯を巻いて食べました。今の浅漬けの素と違った味がしました。ただ、たくわんこーご(沢庵)は臭いからして好きになれず、知らない振りをして囲炉裏の中に捨てたこともありました。
『なないろ』 七色唐辛子の略で、「七味」のことです。「お辛味」とも言いました。すべて自家製で、赤いトウガラシを主にし、干したミカンの皮、サンショウの実、ゴマの他にシソの実も入り、7種類入っていたかどうかは分かりません。擂り鉢で細かくした「なないろ」は、「おごーご」や手打ちの麺に掛けて、乏しい彩りを添えました。

bottom of page