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15 我が家の住生活 その2

住居は地域の気候風土や生産活動の中から時間を掛けて作り出された地域の特性が表れます。八溝地区は、複炉式という二つの炉を持つ縄文時代の竪穴式住居に代表されるように、東北南部と関東の接合点となる居住空間を作り上げて来ました。我が家も、地域の特徴をそのまま継承し、母屋は江戸時代の構造をそのまま残し、今も梁や柱は昔のままです。
『かんそば』 母屋よりも大きい「かんそば:乾燥場」は八溝の山間地の村落風景の一部でした。旧馬頭町は江戸時代には水戸藩に属し、タバコの栽培が推奨され、特に大山田煙草として江戸市中で大きなシェアを誇っていました。明治以降も、国の専売制により、傾斜地を利用した煙草栽培が一層拡大しました。それに伴い、葉タバコの乾燥に必要な「かんそば」が大きくなりました。煙草を供出た後の「かんそば」は子どもの遊び場になりました。昭和40年頃を境に、煙草の栽培は激減し、錆びたトタン屋根が目立っています。
『みそびや(味噌部屋)』 「ひ」と「へ」の区別も曖昧で入れ替わることがあり、「みそびや」と言っていました。気温の変化を少なくするため周囲は土壁で出来ていました。味噌や醤油の酛(もと)の入った樽の他に、叺(かます)に入った塩などが置いてありました。味噌は3年ものの「ひねみそ」が良いとされ、大きな平杓子でかき混ぜて鍋に取ってきて使いました。味噌の中にはニンジンやゴボウの味噌漬けがあり、手を突っ込んで捜しました。味噌を造らなくなり、土壁は崩れ落ち、下地の竹の格子と藁が露出し、空き家になって一番先に取り壊しました。
『かって』 勝手のことですが、今日のキッチンとは違い、仏壇と神棚があり畳の敷いてある一番大きな部屋のことです。地域の民俗調査でもこのことが記録されていますから、我が家だけの呼称ではありません。冠婚葬祭の人寄せ、葉煙草乾燥の際には畳を上げて幹干(かんぼし;葉を取らないで幹ごと干す)の場所にもなりました。家の中で一番使い勝手良い部屋の意味であろうと思われます。村の祭礼の時には帯戸を外して映画会が行われました。改築後は天井が張られ、上囲炉裏(うわいろり)も炬燵に改良されました。
『うらざ』 裏座敷の短縮されたもので、座敷や勝手は、人寄せがあれば襖や帯戸(中間に帯状の格子が組み込まれている板戸)を外してオープンスペースにしますが、裏座だけは開放しません。ここは夫婦のプライベートな居室で、出産も裏座でします。子どもも幼少の時は裏座で両親と寝ますが、小学生くらいになると座敷で年寄りと一緒に寝るようになります。裏座はお嫁さんが唯一憩える場所でした。
『だいどこ』 台所のことですが、調理をする場所でなく、広く家の中の土間全体を言います。炊事も土間でやっていたことから、土間全体を「だいどこ」と言ったと思われます。「だいどこ」では炊事もしますが、基本は室内農作業の場所でした。「だいどこ」の中心には製茶用の焙炉(ほいろ)があり、近所の人も利用しました。改築により、流しが土間から板の間に上がり、台所はもとの意味の炊事をする場所になりました。

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