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14 我が家の住生活 その1

税金を払い、電気水道代も掛かることから、家人からは取り壊しを勧められていますが、生まれ育った家に対する思い入れが強く、八溝の空き家は修理をしながら維持しています。一歩家の中に入れば、子どもの頃に体験が鮮やかに蘇ります。
『手水場(ちょうずば)』 汚いイメージが定着すると呼称が変わります。また、厠(かわや)・憚(はばか)など、婉曲表現をすることもあります。子どもの頃は「ちょうずば」でした。寺社参拝の際に使う「手水(ちょうず)」が語源で、「お手洗い」と同じイメージです。便所は用便のし易さよりも、下肥(しもごえ:糞尿の肥料)としての利用効率のため戸外にありました。雨の日はダッシュです。夜は暗闇が怖くて、雨戸を少し開けて、思い切り腰を前に出して縁側から放尿しましたので、梅雨時には軒下に苔が生えました。今も公共トイレで腰に手を当てる習慣が出て、慌てて人並みの姿勢に戻します。今は「トイレ」と言っていますが、今後どう変化するでしょうか。
『せーふろ』 「据え風呂」の転訛で、風呂の歴史を伝える呼称です。桶に風呂釜をはめ込んだ「ひょっとこ風呂」でしたから、焚き口が小さく、見張っていないと薪が落ちてしまいます。薪割りと風呂焚きは子どもの仕事でした。ラヂオ(ラジオでない)から流れる「赤同鈴之助」の主題歌を歌いながら火の番をしました。風呂場の灯りは10wほどの裸電球だけでしたが、汚れが目立たず、かえって暗い方がよかったのでしょう。40年代以降、文化風呂が普及し、タイル張りの明るい「お風呂場」になりました。
『大黒柱』 長男でしたから、何事につけ「大黒柱になんだから」と言われて育ちました。我が家の大黒柱は1尺以上の無節のケヤキで、戎柱(えびすばしら)との間は太い梁で結ばれています。中学生まで、朝起きると煤で汚れた大黒柱を磨くのが長男の役目でした。文字どおり一家の中心で、先の東日本大地震でも全く傾きがありませんでした。ところが長男は家を出て久しく、一家の大黒柱になれず、八溝の家の大黒柱だけが残っています。
『いけもがり(生虎落)』 八溝の東端では、那須颪が直接吹き込むことはありませんでした。しかし、狭い谷を撚れるように吹き上げますので、「唐箕(とうみ)のけつ」といわれ、寒さもひとしおでした。その上、屋根には煙出しがあり、雪が吹っ掛ける日には屋内にも吹き込みました。そのため北側に防風のための生け垣の「生虎落」が植栽されていました。「虎落」は古いことばで、合戦のための防護柵のことですが、なぜか垣根の意味になり、生け垣を「生虎落」と言います。風が呼吸するように鳴る「虎落笛(もがりぶえ)」を聞きながら蒲団に入りました。
『灰小屋』 カマドや風呂場から大量の灰が出ます。灰はアルカリ成分が多く含有されていることから、草木灰として欠かせません。カマドから十能で掻き出して貯めておきますが、風に煽られて発火して火事になる危険があることから、母屋から離れた風の当たらない南東に大谷石の「灰小屋」を建てて貯蔵しました。今は火を燃やすことがないので不要になりました。

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