13 日々の生業(なりわい)
兼業農家でしたので、昭和30年代の始めまでは、近所と同じようにタバコやコンニャクを耕作していました。手不足でしたので、風呂燃し、御飯炊き、農業の手伝などをよくやりました。これらの体験は、後々大いに役立ちました。
『農休み』 春と秋の農繁期にはそれぞれ5日ほどの「農休み:(農繁休業)」がありました。脳を使っていないのに「脳休み」とも言っていました。田植えの日には、苗を供給する「たろうじ:太郎次」や、埒(らち:植え幅)を決める紐を張るのも子どもの仕事でした。隣近所との「結い」でしたから、「こじはん:小昼飯」は多くの人たちと一緒で、赤飯やニシンのお煮染めが楽しみでした。田植えが終われば「さなぶり」です。稲刈りも手作業で、脱穀はガーコンの足踏み機械でした。「秋まで(秋の収穫)」が終わると村挙げての小学校の大運動会があり、締めは大人も交えた「部落対抗リレー」で大盛り上がりです。運動会の余韻に浸りながら帰る頃には、八溝の山に晩秋の日が沈んでいました。
『煙草伸し(たばこのし)』 煙草栽培は労働集約的な農業の典型です。それでも国の専売制でしたから収入が保証され、傾斜地の畑地の多い八溝地域では主要な換金作物となりました。収入が安定していた分、検収が厳しく、「きゃっか:却下」という言葉は子ども心に恐ろしい響きがありました。収納拒否になれば、収入に直接影響しました。そのため、育苗、移植、1枚ずつ摘んで縄に挟んでの天日乾燥、どの作業も手が抜けませんでした。川遊びをしていても、遠雷が聞こえれば急いで帰宅し、庭に「地干し」した煙草を天屋(あまや:納屋)に取り込みます。秋になると、婆ちゃんの手伝いで、夜鍋の「煙草伸し」があり、眠気との闘いでした。その後産業構造転換により、江戸時代からの煙草栽培は皆無となりました。
『下刈り』 夏休みには弁当を持参し、杉を植林した山の下刈りに入りました。爺ちゃんには、「50年経ったら、おめ(お前)の金になんだから」と、造林は一世代先の仕事だということを諭されました。晩秋になると堆肥にする木の葉をさらう準備のため、雑木山の篠や茅などを払う下刈りもしました。ところが、昭和30年代後半になると安い外材に押され、八溝杉は間伐や枝打ちがされず、商品価値がなくなり、伐採の適期を過ぎてしまいました。同じ頃、急激なエネルーギー革命があり、八溝の薪炭業も壊滅、雑木山は下草が伸び放題、自分の山の境界も不明となってしまいました。山と人との循環の仕組みが崩れ、山が荒れて土砂が流出し、洪水の原因にもなり、イノシシの住み処になっています。
『木の葉浚らい』 畑作地では堆肥が不可欠です。年が明けて雑木山の木々が落葉すると「木の葉浚い(きのはさらい)」があります。尾根から下に熊手で浚い落とし、背よりも大きい木の葉っ籠にぎゅうぎゅう押し込んで、家の前に藁で作った木の葉置き場まで運びます。積んだ木の葉を足で踏み込み、馬小便(ましょうべん)や米の磨ぎ汁を掛けて発酵させ、頃合いを見て上下を反転します。「木の葉浚い」がなくなり、藪となった雑木山には入れません。