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12 運搬・移動具

昭和30年頃は、戦前そのままの運搬具や乗り物が踏襲された一方、モータリゼーションへの萌芽が見られ、様々な運搬・移動具の混在した過渡期でした。
『きーだし』 「木出し」の転訛。八溝杉の需要が高まり、山で伐採された丸太は土場(どば:集材場所)まで土橇(どそり)で出されました。橇道には「ばんぎ(盤木:番木)」が並べられ、沢には桟橋が架けをられました。橇に背丈ほどの高さに丸太を積み、肩に紐を掛け、手で梶棒を操りながら斜面を降りますが、スピードを制御しカーブを曲がる熟練の技が求められます。土場からはゴムタイヤ付の馬車で製材工場(こうば)に運ばれました。30年以降は林道が延び、トラックが普及し、橇も馬車もなくなりました。
『魚屋の運搬車』 村で1軒だけの魚屋さんが、運搬車と呼んでいた荷掛(荷台)が大きくスタンドも頑丈な自転車に、三段ほどの魚箱を乗せて行商に回ってきました。荷掛は魚箱から漏れ出る塩水で赤さびが浮き出ていました。魚は、サケの塩引、塩ホッケやニシン干物などが多く、刺身などの鮮魚はありませんでした。葬儀があると、注文を受けた酢蛸を長い刺身包丁で精進揚げの器に切り分けました。これが八溝の「刺身」でした。
『片倉シルク号』 絹の製糸業で財をなした片倉財閥の関連企業が造っていたことからの命名と思われます。荷物を運ぶ自転車の「運搬車」に対して「軽快車」と呼んでいました。同居していた叔母が分校に通うため購入したものですが、当時の値段は教員の給料の2か月分ほどの高価なもので、今日での自家用車を買う感覚であったと言っています。この自転車を借りて、フレームの三角形に右足を入れての「三角乗り」で練習を始めました。
『山口オートペット』 自転車メーカーの山口から原動機が外付けされた「山口オートペット」が発売されました。普通の自転車のようにペダルで始動し、サドル脇のレバーでタイヤに圧着させ、自転車の後輪の外側にある原動機を始動させます。平坦な道ではエンジンだけで走れますが、坂道は出力不足になり、ペダルで原動機を補助します。オートペットは僅かな時期だけで、原付バイクが普及し「山口」の名前は聞かなくなりました。
『マツダオート三輪』 荷車、リヤカーだった頃に、近所の精米所にオート三輪が入り、農家から委託された精米や製粉の原料の集荷に使われました。自転車と同じ棒ハンドルで、運転する人が真ん中に乗るので、助手席はありません。悪路でも小回りが利き、山間の村では重宝されましたが、道路の改修が進み、オート三輪は見かけなくなりました。
『トレーラー』 耕耘機の普及とともに、リヤカーを改良したようなトレーラーが取り付けられました。今まで人の背やリヤカーで運んでいた堆肥や収穫物を運搬できるようになり、トレーラーの椅子に夫婦が座り、田畑に行く姿が見られました。機械化が進み、農業に希望が持てた時代であったのに、間もなく産業構造の変化により山間地の農業が衰退してしまいました。兼業農家の我が家にはトレーラーは導入されませんでした。

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