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11 少年の衣生活

毎年、葉タバコの収納に合わせて町の商工祭が行われました。1日3度の定期バスの他に、臨時便が出ました。町に行って一番先に行くのは呉服屋でした。
『半纏』 町には呉服屋と洋品屋というお店が並存していました。どの店でも大通りにはみ出して、一番目立つところに様々な柄の綿入れ半纏(ばんてん)や袢衣(はんこ:袖無し半纏)を並べておきました。昭和20年代から30年代には、冬になると綿入れ半纏を着ていました。一度も洗濯をしませんから袖口や襟は「かべっかす(壁っ滓)」が貼り付いていました。商工祭の翌日の教室は、新しい半纏や袢衣で華やいだ感じになりました。昭和40年代になると経済的にも大きく変化し、洋装化が進み、農家を相手にしていた在郷町は活気を無くし、出身地の旧国名を付けた老舗の呉服屋はなくなりました。
『万年草履(まんねんぞうり)』 小学校低学年までは、夜鍋で作ってもらった藁草履(わらぞうり)での登校でした。雨が降ると背中全体に「尻っぱね:尻跳ね」が上がります。4年生になる頃、「亀の子草履」とも呼ばれたゴム製の安価な「万年草履」が普及しました。形が亀に似て、耐久性も「万年」です。汗をかくと滑って脱げ易くなり、足裏全体で押さえたので、指の力が鍛えられました。その後、ゴムの短靴が出て、さらにゴム長も身近になりましたが、八溝ではまだ靴下を履く習慣がなかったので、いつも汗でベタベタでした。今日、世界中に普及しているビーチサンダルの起源は日本の「万年草履」です。私たちは、世界に先駆けて「ビーサン」を履いた世代です。世界的タイヤメーカーのブリヂストンのルーツは履き物で、学校などの上履きとして使われているアサヒシューズも同族の会社です。
『しーつ』 昭和20年代までの葬式の返礼は、白い砂糖と焼き饅頭でした。その後30年代になると真っ白な蒲団のシーツに代わりました。シーツを敷くという習慣がなかったので、蒲団が汚れているのは当たり前でしたが、葬式の返礼によってシーツを敷く習慣が普及しました。来客があると、真新しい折り目の残ったシーツでもてなしました。その後柔らかな肌触りの起毛のシーツも登場しました。昭和40年代になると、植木等のコマーシャルで有名になった折りたたみ傘の「アイデアル」が主役となり、一時代を画しました。返礼品によって生活習慣が変わることもあり、今はシーツ無しの生活は考えられません。
『手拭(てのぐい)』 手を拭う「手拭い」が転訛して「てのごい」になりました。日ごろから首に巻き汗拭きにしたり、冬は頬っ被りにも使いました。入浴の時は、家族全員の「湯手拭」を使いました。その他に、新しい手拭を半分にして布巾(ふきん)にて食器の上に被せたり、怪我をすれば裂いて包帯の代用にもしました。手拭は汎用性があったことから、上棟式などの祝儀の返礼にも使い、商店のお歳暮には赤い字で店名の入った手拭をもらいました。葬式の時には、組内の人に手拭を配り、床掘り(土葬の穴)の人は腰の手拭を巻いていました。特別の霊力があったと思われます。今でも登山の際に持参し、ハンカチ代わりにしています。

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