07 村外からの人たち その2
集落は行き止まりでしたから、外部から来る人は商売や仕事のための人だけです。それでも少年たちに外の風を吹き込んでくれました。
『呉服屋』 自転車に大きな風呂敷包みを載せ、町から呉服屋がやって来ました。上がりっ端(ぱな)に商品を広げると近所の人たちも集まってきます。呉服屋さんと呼んでいましたが、実際は農家の人たちが日常に着る普段着が中心です。商品には値札が付いていませんし、普段から商品を見慣れていませんでしたから、呉服屋の言い値で買うことになります。着物などの古着屋も来ましたが、こちらは関心がありませんでした。
『かなぐつや』「かなぐつ」は蹄鉄のことです。どの家でも馬を飼育していましたから、「かなぐつや」が巡回してきました。馬を庭に引き出し、古い「かなぐつ」を外し、伸びた蹄を鉈のようなものを当ててハンマーで叩いて整形し、その後で「かなぐつ」を打ち付けます。昭和30年代までは庭先で普通に見られた風景でした。残った「かなぐつ」は魔除けになるというので玄関先に飾ってあります。
『漆搔き』戦前の大内村は県内有数の漆の栽培地で、耕作が不可能な斜面や川の段丘崖などに植栽され、農家の収入に貢献しました。町の方から「漆搔き」がやって来て、漆の木に「搔き鎌」で横に何本かの傷を付け、滲み出る樹液を腰に提げた「たかっぽ」という容器に集めました。戦後、人工塗料の普及により、漆の需要がなくなり、漆の栽培は急激に減少しました。国産の漆が貴重になっていますが、八溝には漆の木はほとんどありません。
『教員住宅』住宅といえば「教員住宅」のことでした。交通不便地のため、教員は家族で赴任し、校地に隣接する住宅に住みました。地域の子どもたちとって、住宅は町場の子どもから新しい知識や遊びを知る場所で、いつも遊び仲間が集まっていました。しかし、2年か3年で異動してしまうので、「町場の人」のままで終わってしまいました。校長住宅もありましたが、こちらは敷居が高く、行ったことがありませんでした。
『駐在所』駐在所は家から2キロほど離れたバスの通る大子街道沿いにあり、普段は身近に感じない場所でした。駐在所周辺から通う同級生から、新しく赴任した駐在所に同じ年頃の女の子がいるとの情報が入りました。夜には笛を吹いていると誇張して語りました。村にはないクラリネットだったのでしょうか。ドキドキしながら新学期を迎えましたが、残念なことに町の学校にバスで通い、地元の学校には入りませんでした。今は駐在所もなくなり、過疎化に拍車がかかっています。
『官舎』官舎は営林署の住宅です。国有林が多かったので、家の近くに10軒以上の官舎があり、中には秋田県の能代の人たちもいました。今までは作業する山中に宿舎を建てて居住していました。林道が発達し、現場に通勤することが出来るようになり、学校近くの我が家の土地に官舎が建ちました。別に管理職のための戸建ての住宅があり、近所付き合いもしていたことから、今でもお付き合いをしています。林業衰退で官舎はなくなり、跡地は草で覆われています。