
<大子の蒟蒻神社:草が繫茂している>
生家がある旧馬頭町は水戸藩に含まれ、コンニャク栽培農家の多い所でした。コンニャク栽培の歴史を知るため、大子と下仁田を訪ねました。(表記上作物はコンニャク)
藩専売作物/水戸藩は、御三家の格式に比して米の実高は少なく、茶や煙草などの畑作を奨励し、中でもコンニャクは専売として、江戸に会所(取引所)を設けて、藩財政の支え としました。
藩内の中島藤右衛門が、芋を輪切りにし、串にさして乾燥させたうえで製粉する技術を開発し、保存と軽量化により、江戸時代には大子のコンニャクが市場を席捲しました。
コンニャクは水はけのよい土質を好むことから、八溝の山間地は好適地でしたが、天候に左右されるため収穫量が安定せず、「運玉」と言われました。市場に疎い農家は庭先取引で仲買人に買いたたかれ、食う米にも窮した一方で、「蒟蒻大尽」も生まれました。
コンニャクは、東南アジア原産であることから、種芋の冬期保存が難しく、大きな農家は土壁の室(むろ)で暖を取り、小さな農家は囲炉裏の天棚で保存しました。売渡しまで3年から4年かかり、労働集約型の営農でしたが、それでも換金作物として欠かせないものでした。小学生の上級学年になれば、貴重な働き手として、コンニャク掘り棒で堀上の手伝いをしました。。
やがて、価格の安定した専売制の葉タバコ栽培に切り替え、コンニャク農家は減少、昭和30年以降は、急激な人口減による過疎化の波に も飲み込まれ、コンニャク畑を見ることができなくなりました。八溝地区のコンニャクは市場競争から撤退しました。
日本一の産地/ネギでも知られている群馬県の下仁田は、コンニャクでも日本一の生産量を誇ります。水はけのよい土壌に恵まれ、さらに、明治になって、大子で開発された天日干し乾燥による製粉を導入、さらに水車によって量産が可能となりました。
関東地区で一番早く私鉄の上信電鉄が高崎から下仁田からまで通じ、市場が拡大しました。戦後には県立の「こんにゃく特産研究所」による新品種の開発などにより、群馬県産は国内生産の90%を占め、その内の50%が下仁田産となりました。
最近の健康食ブームで国外へも販路を広げています。「コンニャクと言えば群馬」となったのは、栽培に適した自然条件だけでなく、労を惜しまない勤勉さと、生糸で培われた市場に敏感な商才にあります。「かかあ天下」と言われる女性たちの働きも見逃せません。
下仁田の中心地には、3人の 総理大臣が食べたという蒟蒻店の大きな店舗が残っていました。3人の総理大臣を生んだ上州と、衰退して久しい八溝地域との差を思い知らされました。
ばあちゃんの甘味噌「べったら蒟蒻」の味は遠い記憶になりました。
