
<助川海防城跡(日立市助川町)>
自身の出身地旧馬頭町は、幕藩時代は水戸藩領であったことから、町内各地に幕末の藩内対立の痕跡が残っています。幕末の藩主徳川斉昭(なりあき)が残した茨城県内の二つの史跡を訪ね、先人たちが当面した混沌とした時代を知り、これからの生き方を考えました。
助川の海防城/ペリー来航の29年前、文政7年(1824)に、イギリス捕鯨船の12名の乗組員がボートで上陸、水や野菜を要求する「大津浜異人上陸事件」が起きました。水戸藩では乗組員を捕縛して、幕府と協議の末、水や新鮮な野菜などを与えて釈放しました。
この対応に対して攘夷の強硬派は幕府の対応が手ぬるいと批判したことから、幕府は翌年に「異国船打払令」を出して、すべての異国船を即時撃退するよう諸藩に命じました。
水戸徳川家は御三家として、参勤交代のない定府(じょうふ)でしたが、水戸藩9代藩主斉昭は幕政での対立から帰藩を命じられました。この機に、斉昭は藩内改革を断行、中でも、海防の重視を説き、鹿島灘を見通せる助川(現日立市)の高台に海防城を築城しました。
しかし、斉昭没後、強力なリーダーを失った藩内では、穏健派の諸生党と過激派天狗党の抗争により、助川城は役割りを果たさないまま焼失してしまいました。この間の抗争は、吉村昭の『天狗騒乱』に詳しく描かれています。城跡にはわずかに石積が残っているだけですが、国の先兵にならんと自負し、城に詰めた水戸藩士の息吹きを感じることができました。
那珂湊の反射炉/天保7(1836)年、海防の必要性をいち早く感じとった斉昭は、幕府の資金を借り、他藩の技術者を招聘、那珂湊の高台に耐火煉瓦の溶鉱炉2基を建設、大砲を鋳造しました。耐火煉瓦の粘土は、水戸藩領であった小砂村から那珂川を舟で運びました。
折から天保の飢饉の中、高炉建設は領民にも多大な負担と辛苦を与えました。やがて、斉昭逝去後には操業中止となり、溶鉱炉は藩内の尊王攘夷派の天狗党一派により破壊されてしまいました。急激な変革の中、先見性を持った斉昭も時代の犠牲者だったのでしょう。
なお、高炉建設に関わった大島高任(たかとう)は、維新後に官営釜石製鉄所の操業に尽力、釜石駅前に銅像が立っています。釜石の橋野高炉跡は明治の近代産業遺産として世界遺産に登録されているので、那珂湊の高炉が破壊されてしまったのは惜しまれてなりません。
藩校弘道館出身の優秀な人材は、藩内対立により、維新後に世をリードする前に失われてしまいました。水戸の三ぽい「理屈っぽい・骨っぽい・怒りっぽい」のせいでしょうか。
2004年に反射炉が復元されたので、海浜公園や魚市場の途中に立ち寄ってください。
