『八溝方言ごじゃっぺ辞典』は「私小説」です
<「ごじゃっぺ」は「でたらめ」「いい加減」という意味>
<30mほどある長い門場(かどば) 茶の列が今も残る>
ちょうど半世紀に及ぶ勤務を終え、中国の詩人陶淵明のように、いよいよ「帰りなんいざ」と、帰農しようとしていた矢先、突然救急車でがんセンターに搬送、急性白血病と診断され、厳しい化学療法に身を任せることになりました。健康そのものであった自分の身を嘆くことよりも、残された命をどう生かすかを模索する中で、八溝の言葉を書き記さねばとの焦りにも似た使命感がふつふつと湧き上がりました。治療の合間に小康を得た時、忘れかけていた言葉を一語ずつベッドの上でパソコンに打ち込みました。その時々の心身の状態により、言葉に込めるエネルギーにも波が出来てしまいました。副作用のため生きることが精一杯という日が続いた後、日によっては、堰を切ったように言葉が溢れてくることもありました。どの言葉も、闘病期間中に自分と向き合いながら書いた記念すべきものですから、その時々の心の有り様だと思って、あまり訂正はしませんでした。「八溝ごじゃっぺ語」一つ一つに、昭和30年の少年に立ち返り、闘病している自分の精気を込めたつもりです。「体験的」としましたから、どの語を書き記すに当たっても、当時の家族、そして友だち、お世話になった先生などの姿を蘇らせました。ただ、あの頃の瑞々しい少年を描き切れていないという、心許なさが残りました。
ことばと向き合いながらも、心の折れそうな日もありました。そういう先の見えない闘病中に、多くの人に励まされ、1年の無菌室生活を乗り切れました。中でも卒業生や、かつての同僚だった若い方々の励ましが何よりも力になりました。ただ、今まで教室や職員室で、若い人たちに人生の在り方を話していたのに、自分の人生の終わり方をしっかりしなければ、いままでの教員人生がすべて絵空事になってしまうのではないかという心配も大きくなりました。そんな時、敬慕する芭蕉の生き方から学ぶことが多くありました。芭蕉は、俳諧という新たな芸術の高みを求め、生涯にわたって旅を続けました。その集大成が『おくのほそ道』(最後の稿本の題が平仮名)です。最期を旅先の大坂(まだ阪でない)で迎え、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を辞世の句として、五十一歳の生涯を閉じました。彼は、最晩年まで『おくのほそ道』を頭陀袋に入れて旅に出て、何度も推敲を重ねていました。刊本が世に出たのは死後2年ほど経ってからですから、本人は『おくのほそ道』を見ていませんし、世間での評価も知らないままでした。
その彼は、最晩年になって、新たな道を追い求め、「不易流行」という新しい境地を開いて行きました。昨日を捨て、絶えず新しい今日を求めていたとも言えます。五十一歳は長寿ではありませんが、当時の平均寿命からすれば必ずしも短命とは言えません。その彼には「余生」は全くなかったし、「余命」も辞世の句を作る時に意識したでしょうが、死に臨んでもなお俳諧革新への夢が駆け巡っていたのでしょう。
<シンボルの愛宕山:小学校の校舎は新しくなった>
改めて自分の人生を考えてみました。確かに職業としての仕事は終わりました。その意味では、毎日が余生とも言えます。しかし、生き甲斐を持ち、自己向上を目指す人には、余った命というものはないように思っています。現実を受け止めながら、限られた命を生かさなければならないと改めて覚悟をしています。そうでないと、志半ばで亡くなった芭蕉翁に申し訳ありませんし、何よりも私の「余命」を心配してくださる多くの方がいるのですから、余力を残さずに最期を迎えなければならないと決意を新たにしています。
抄とはしましたが、なんとか『八溝方言ごじゃっぺ辞典』を書き終えました。よく考えてみると、多くの八溝の言葉と向き合いながら、自分の体験を表現した「私小説」ではないかとも思えます。ですから「辞典」でなく「自伝」ともいえます。
なお、タイトルの「ごじゃっぺ」は、「いい加減」とか「でたらめ」という意味ですが、ひどく悪意のある言葉ではありません。能力が至らず結果として間違えたのですから「ごじゃっぺ辞典」とすべきだったでしょうか。「なんつったって八溝の言葉はおもしれぞ」。
最後になりますが、この文章が世に出せたのは、かつて職場を同じくした中條康雄先生のお陰です。絶えず熱い励ましをしてくださり、多忙な中の時間を割いてくださいました。中條先生なしでは、ただの独りよがりの雑文として、パソコンの廃棄とともに消えてしまうはずのものでした。感謝してもしきれません。ありがとうございました。